自伝的小説 『バンザイ』 第十章 悲しみの果て
10
何も考えることができなかった。
親が買ってくる飯を口に運び、あとは布団の上で眠るか寝転がるだけ。誰からの連絡も返さない。テレビを見てもネットを見ても何も感じない。風呂には入ることができなくなり、身体を擦ると消しゴムのカスのような垢がたくさん出てきた。
何をしていたのか覚えのない時間が三ヶ月過ぎた。その間一度も風呂に入らなかった。消しゴムのカスはピンポン玉サイズの塊になっていた。
バンドやタマのことを思い出しては胸が締め付けられ、しかし、どれだけ考えても悔やんでも戻れないことを痛感するばかり。涙すら出ない。
二週に一度、入院した病院に通った。精神科の先生に何か質問されても、何を言ってるのか全く理解できなかった。体重を測り、血液を抜かれ、毎回異常がないことを知らされた。しかし確実に前の身体とは別物になっていた。内臓に違和感があった。しかしそれを伝えても伝わらず、いつしか何も伝えなくなっていた。
このまま死を待つのみなのかと、白い天井を眺めながら考えた。今すぐに消えたくなって、頭を壁に何度も打ちつけた。
ゴンッ、ゴンッ、ゴンッ、ゴンッ——。
しばらくすると部屋の扉が開いた。
「……何やってるの?」
母親が音を聞けたらしかった。僕は何も答えなかった。痛みも感情もほとんどなかった。
人間の身体はそう簡単には壊れない。当たり前だ。電車に轢かれても生き残る人もいる。選ばれし人たちなんだ。僕は選ばれることがなかった。ただただ身体にダメージを負い、持っていたものを全て無くしただけだった。生きている意味も価値もない。
しかし、もう自分で死ぬこともできない。何度も死のうとしたことで、死というものに恐怖心を抱いてしまっだ。最初は全く何も怖くなかった。しかし薄れていく意識の中で、暗闇が襲いかかるあの瞬間を味わってしまった。
僕は自分の行いを正しいものにしようと、必死になって自殺について調べてた。死の先にある希望を探し続けた。しかし、その行為をきちんと肯定している文章は無かった。ただの一つとして。必ず成仏できずに死ぬ前よりも苦しむ、といったことが書かれていた。そんなの嫌に決まってる。地縛霊になって一生そこで悔やみ続けなければならないなんて、想像したくもない。
死は救いだと思っていたのに、その真逆ということを思い知らされた。
たくさんのロックスターや作家は自ら死を選んでいる。奴らは全員死の後に苦しんだってことなのか? それに憧れて後追いのように模倣した凡人はなんなんだ? 何が27クラブだ。何がノーフューチャーだ。自ら死ぬ事をまるで推奨ているかのような扱い。スターになりたきゃ死んで伝説になろう! とでも言ってるみたいじゃないか。僕はまんまと騙された。
くそったれ。
ふと、あることを思い出した。
初恋は小学2年生の頃だった。幼稚園から恋の話をしている友達がいたけど、僕はその感覚がさっぱりわからなかった。「お前誰が好きなんだよ?」と訊かれた時、その辺にいた適当な女の子の名前を答えた。それを聞き盛り上がっている友達を不思議に思っていた。
小学校に上がり、一年と少しが過ぎ、ようやく恋心というもが理解できた。同じ班になった女の子が気になって仕方がなくなった。一緒に紙芝居を作っていて「班長」と僕のことを呼び、それがとても印象に残っている。
しかし、なんの進展もせず時は流れていった。高学年になり別の子を好きになったりもしたけど、実ることはなかった。遠くから眺めているだけでドキドキしていた。
高校二年の冬休みにそれは起こった。僕は高校に入ってから二人彼女ができ、それなりに酸いも甘いも経験していた。アルバイトをし、バイクを乗り回し、バンドで音を鳴らし、人生を謳歌しているところだった。学校はくそみたいにつまらなかったけど、それ以外の生活は充実していた。何も怖いものなんてなかったかもしれない。
家の電話が突然鳴った。出てみると、声の主は僕を音楽の道へと引きづり込んだキヨだった。
「サエが事故で亡くなったらしい」
「え、嘘でしょ?」
「嘘なわけねーだろ、馬鹿野郎」
「……なんで?」
「事故だよ事故。なんか高いところから落ちちゃったらしい。詳しくはわからんけど」
「そうなんだ……」
「とりあえずそれだけ。あとで葬式とかの場所メールするわ」
電話が切れた。僕は何を言われたのか全く理解でないでいた。
翌日、母親に香典を持たされ、制服を着て斎場へ向かった。懐かしい顔がたくさんあった。制服を着たの女子高生もたくさんいた。小学校の頃の先生の姿も見えた。その顔は皆一様に明るかったように思う。まだ何が起きたのか、理解できていないようだった。
奥に進むとなんだか物々しい雰囲気だった。祭壇とサエの写真、棺桶、そしてたくさんの花。小学生の頃にサエが描いて、区のマスコットキャラに選ばれた、ネズミの『ゴンノスケ』の絵も飾られていた。
俯く両親の横には彼女の弟が、憔悴し切った様子で座っていた。その昔校庭で遊んであげた記憶がある。確か三つ年下で、ヤンチャな子供だった。サエのことが好きだった当時、弟の下校について行き、家まで送ったことがあった。辿り着くとそこはマンションだった。「何階に住んでんの?」と聞くと、「六階!」と言っても彼は走って入り口へと逃げて行った。まともに姿を見るのはそれ以来だろうか。本当に久しぶりに顔を見た気がする。
彼女はマンションのベランダから転落して亡くなった。夜中に帰ってきた彼女は、家の鍵が閉まっていることに気付き、たまたま鍵を持っていなかった為、階段からベランダへとよじ登り渡ろうとした。家に入れない時は、子供の頃からそうしていたそうだ。
その日は雪が降っていて、彼女はアルコールを飲んでいた。後の現場検証でベランダの手すりに、人が滑った痕跡が発見されたそうだ。彼女の父親はその時起きてはいたものの、シャワーを浴びていたらしく、周りの物音には一切気付かなかった。彼女は即死ではなかった。朝方になり亡骸が発見された。
どんな気がする? 姉が突然変わり果てた姿になってしまうのは。シャワーを浴びていたせいで、娘の命が消えてしまうのは。
お通夜では参列者に寿司が振舞われた。僕は何も食べる気がせず、瓶のオレンジジュースだけを口にした。隣で女子高生のグループがワイワイ騒いでいたので、ぶっ飛ばしてやろうかと思った。地元の友達が勢揃いしていたけど、何を話していいか誰もわからず、たまにポロっと喋っては、黙々と目の前にあるものを口に運んでいた。
さらに翌日、同じ場所での告別式。彼女の父親は気丈にスピーチをしていた。年末だったおかげで、長めにお別れの時間を取ることができて良かった、と言っていた。時折グッと堪える素振りを見せながらも、彼はそのまま最後までやり通した。弟は相変わらず憔悴した表情のままだった。
最後のお別れの時間になり、遺体に花を添えることになった。開けられた棺桶の中に彼女はいた。それを見た女子高生たちは悲鳴をあげるように泣き出した。僕は彼女に近付き花を入れた。その時、彼女の顔がはっきりと見えた。傷一つない綺麗な顔だった。しかし、生きていないということは一目見ただけでわかった。
そのまま彼女は車に乗せられ、クラクションの音と共に近くの火葬場に運ばれて行った。これ以上は親族のみということだったので、それが最後のお別れとなった。僕はあまりの呆気なさに、ただ言葉を失うしかなかった。涙の一粒も出なかった。
死を強く意識するようになったのはそこからだった。初恋の人を失ったのだ。なんだか映画のような話で、実感は全くと言っていいほどなかった。死とはそれほど突然で、受け入れ難いものなのだと知った。
亡くなる半年ほど前に、たまたまサエから電話があった。地元の色恋沙汰に板挟みにされていた彼女が、何か知っていることはない? と聞いてきただけの、大したことのない内容だった。「わからないよ」と答えると、「そっか、ごめんね」と申し訳なさそうに彼女は言った。声を聞いたのは小学生以来のこと。本当に偶然に起こったそれが、サエとの最後のやりとりだった。
まだどこかで生きている気がする。いや、きっと生きているんだろう。そう思っていても、あの時棺の中に見た彼女の顔が忘れられなかった。何年経っても忘れることができなかった。人は死んでしまうと、絶対に、もう二度と動くことはなくなる。
きっとみんなはすぐに忘れるだろう。だったら俺だけはずっと忘れないでおこう。彼女の分まで生きて、すごい奴になってやる。そしてどこかに彼女が生きていた証を残すんだ。絶対に俺だけは君のことを忘れないでやる。僕は密かに胸の中で誓っていた。
そんなことも忘れて、僕は自ら死のうとした。その罰で今こんな風になってしまっているのかもしれない。まだ彼女に何もしてあげられていない。すごい奴になるどころか、人間ですらなくなってしまっている。情けない。くそったれだ。もう死ぬことすらもできない。
——彼女はどんな声してたっけな。弟は元気でやっているかな。お父さんは未だにあの日のことを悔やんだりしているのかな。
僕はこれからどうしていけばいいのだろう。何もわからない。ただただ時間だけが過ぎていった。誰も助けてなんかくれなかった。僕はテレビだけがついた暗い部屋の中で、ずっとサエのことを思い出していた。
普通に生きること、それはきっと見えない奇跡の連続だ。今生きている人々は普通にそれを起こし続けている。それってよくよく考えたら、異常すぎることなんじゃないだろうか。何億もの精子の中から選ばれただけでもすごいのに、そこから死なずにこれまで生きてきて、心臓はずっと休まずに動き続けて、大きな病気も怪我も事故もなく、当たり前のように仕事や学業などをこなす。
何事もやってみなければわからない。当たって砕けてみろ。そんなこと言うけど、その一発が致命傷になることだってあるだろう。取り返しのつかない失敗なんてたくさんある。それを恐れて何もしないことが正解か? 勝負しなければ負けることはない。幸せにならなければ不幸になることもなかった。
あの時タマと一緒になったのは、間違いだったのか? ギターをぶっ壊したのは失敗だったのか? どうすることが正解だったのか、もう何もわからない。わかったところで遅すぎる。
何度も死のうとしても、それすら失敗して、中途半端に壊れた身体。この状況で僕は何をすればいいのだろう。もうこれ以上、何ができるというのだろうか。
外は雨が降っている。傘なんてもう必要ない。死ぬまでここから出られないのだから。このまま一人で、ひっそりと冷たくなるだけだから。
久しぶりに涙が溢れた。色んな想いが蘇って止まらなくなった。どれだけ泣いても枯れることはなく、三日間ほど泣き続けた。泣いても泣いても、それは止まることはなく、いくら泣いたところで、何一つ変わらない。そのうち目と頭がひどく痛み、自然と涙は止まった。
誰でもいいから、僕を殺してくれ。
屋上のような場所でライブをしていた。ドラムを叩きながら、視界が右往左往し、激しく頭を揺らしていた。そうだ、これだ。求めているのはこの感覚なんだ。身体を動かし、音を鳴らし、渦に飲みこまれていく——。
そこで目が覚めた。
夢だってことに悲しくなって、やっぱりカッコよかったんだなって思って、一人で泣いた。
——なんでバンドやり始めたんだっけな。
たまたま中三でやりたいと思って、たまたまドラムってなって、たまたま習いに行って、ギターは友達が家に置いていったのがあって、テキトーにコード覚えて弾けるようになって、ドラムに飽きたからベースもやろうと思って、お茶の水で初心者セット買ってきて、毎日弾いて楽しんで——。
なんで始めたとか別になくて、気付いたら自然と向こうから集まってくれたような感覚だった。音楽が好きとか、誰かと繋がる為の音楽とか、音楽で食べていく為にとか、そんなのは一ミリだって考えなかった。ごくごく自然に、それこそ運命のように導かれた。
高校に通い、アツと知り合い仲良くなり、彼の同級生の女の子と僕は付き合うことになった。その子もまた一目惚れだった。ある日その子がライブを企画した。その場所が蒲田トップスだった。そしてそこにクボタとホシくんのバンドがたまたま呼ばれた。そして、それだけならまだしも、アツとクボタはなんと小学校の同級生だった。そんな奇跡が僕らの知らないところで連なっていて、クボタがライブハウスの階段で声を上げた。
「アツ!」
クボタのその声で、僕らは繋がった。二人が知り合いじゃなかったら、会話すらしなかったかもしれない。生まれて初めて出るライブハウスで、色んな線がたまたま交差していた。これが運命じゃなかったらなんなんだ? ただただ導かれるようにごく自然と、音楽が好きだという自覚もないまま、夢中になっていた。
その後また偶然が重なり続けて、僕は軟弱金魚に加入した。アツとのバンドではベースをやっていたけど、軟弱金魚ではドラムしかやりたくないと思っていた。そこだけがぽっかりと、ピンスポットを浴びたまま空いているように見えた。
それからライブ活動をし、ヒデさんと出会い、タマと出会い、付き合うまでに至った。そこまではハッピーエンドに向かっていたんだ。
なんであんなにうまくいってたんだろう。音楽をやるために生まれてきたような、すごい出会いばかりだった。「やりたいことがわからない」なんて言っている人の、何百倍もドラマチックだったはずだ。それなのに、一体どこで道を間違えたのか。
タマと一緒になったのがやっぱり一番いけなかったのだろうか。あそこでぐっと堪えて、バンドに打ち込んでいれば、今頃音楽で食えていけたのだろうか。幸せも金も安定もいらないからと、祈るような思いでバンドをやっていた。でも僕は幸せを得てしまった。どうしても我慢することができなかった。幸せなままバンド活動ができると思ってしまった。
何故こんなに普通に生きられないんだろう。普通に余裕な顔で生きている人たちが、神様に見えてくる。やりたいことなんかなくても、毎日立派に働いて暮らしているなら、それはとてもすごいことだ。そんな暮らしでも別にいいんだ。生き続けるしかないのだから、こうなってしまうよりは、何千倍もいいじゃないか。
このトンネルから、いつか抜け出せるのか。先が真っ暗過ぎて、無限に続いているように思える。進んでも進んでも光はないし、そもそも進んでいるのかすらわからない。あの頃の自分が眩し過ぎて目が見えない。何も考えることすらできない。このまま死んでしまうのが一番楽だ。もう誰にも迷惑かけることもない。
戦時中に戻って、戦闘機で敵地に突っ込もうとしている人に声かけ、変わってあげたい気分だった。それで僕はお国の為に命を投げ捨てるんだ。そんなカッコいい死に方、本当に他にあるだろか。こんな命だったらいくらでも堂々と差し出してやる。むしろそれが僕にとっては理想的な終わり方だ。死で誰かに貢献できるなんて、本当に憧れる。だってこの世に俺より価値のない人間なんていないから。一番びりっけつが一番に差し出すべきだろう?
あー、今日はやけに頭が回る。何一つ考えたくないはずなのに。
そしてまた、眠りについた。
更に三ヶ月が経過し、半年が過ぎた。
僕は一度も風呂に入らなかった。身体中がドロドロになっても別に気にも留めなかった。入ったところで何もない。誰にも会うわけがない。ただ死を待つのみ。
何もせずにただ死を待っていたけど、いつまでも死なないことにイラついてきた。
相変わらずメシを食い眠り続けているだけ。起きている間はテレビをなんとなく眺めるだけ。携帯もほとんど触らず、音楽も聴かず、本も読まず、日記も書かない、無の時間。なるべく何も思わないよう、思い出さないように過ごす。心に蓋をして更にその上に座る。昔の夢を見てしまうと、起きた時には最悪の気分だった。そのままそれが鎮まるのを待ち、またメシを食い、眠るだけ。
なんなんだこれは? 何をやっているんだ俺は? 半年が経ち、段々と白昼夢のようなものから目覚めていく感覚があった。
こんな生活、「もう飽きた」。思わず口から溢れていた。こんなこと続けていても、なんの意味もない。
僕は久しぶりに立ち上がった。
鏡に映るそいつはまるで獣だった。
さて、どうしたもんかな。
とりあえず風呂に入ってみた。ドロドロの服を脱ぎ、長く伸びた髪を洗い、醜い身体を綺麗にしていった。どれだけ洗っても垢が出続けたので、頭と身体を三回ずつ洗い、湯船に浸かったあと、仕上げにもう一度洗った。久しぶりの湯船は言葉にならない気持ちよさがあった。
汚れ切った下着を捨て、久しぶりに綺麗な服に着替えると、それなりに爽快感があった。長い髪を濡れたまま結んで、とりあえずノートパソコンを開いた。さあ、何かやってやろうか。
最初に思い付いたのは、バンドでやっていたネット活動のことだった。僕らは生放送をして知らない人たちと会話をし、なんとか存在をアピールしていた。今は曲なんてないし、表現したいこともない。しかし、何もないことですら表現してしまいたいほど時間持て余していた。誰かと繋がりたい気持ちでいっぱいだった。
とりあえず生放送をすることにした。ノートパソコンにはカメラとマイクが搭載されているので、ボタンをポチポチするだけでわりと簡単に配信をすることができた。画面には髪の長い髭面の男が映った。別にもう守るものもなにもないので、そのままにしておいた。
何も喋らずにただ画面だけを眺めていると、人が来たという数字がピョコっと増えた。僕は「こんにちはー」などと言い、コメントが来るのをじっと待った。
そのうちに数字がまた増え、「髪長っ」、「なんか喋れ」などのコメントがきて、僕はテキトーにそれに答えていった。そのサイトの生放送は三十分経つと終わってしまう。バンドでやっていた時同様、びっくりするくらい早く三十分ぎ過ぎた。そしてすぐにまた新しい枠を取って、数字がリセットされた。
そんなことを何時間も続けていると、ある程度コメントがくるようになり、ある程度喋れるようになってきた。僕は時間を忘れて顔もわからない人たちと喋り続けた。バンドをやっていたことを話したり、半年風呂に入らなかったことも打ち明けた。顔を合わせていない分、リアルで話せないことも気にせず話せた。こちらが心を開けば、向こうも同じようにしてくれる印象だった。ネット上には闇を抱えた人達がゴロゴロいた。
離婚して実家に戻った無職の同世代の人。職場で嫌がらせを受け精神的におかしくなってしまった人。若くして子供ができてしまった育児ノイローゼの主婦。覚醒剤の後遺症に苦しむ人。ギャンブル依存症の人。奥さんに浮気されたシングルファーザー。指定難病に苦しみ病院から見ている人。癌になってしまった人。脳梗塞を克服した人。性同一性障害の人。発達障害の人。小指がない人。変な人。
そんな人達と話して、なんとなくだけど日本の広さを感じた。僕は東京と神奈川の二つくらいしかほとんど知らない。しかし単純に考えても日本はその二十倍以上は広い。その分人もたくさんいる。当たり前に苦しんでいるのは自分だけではない。みんな何かを抱えて戦っている。一見普通に見える人でも、たぶん生きるのに必死なんだろうと思う。
人はみんなきっと、誰かと関わり合いたい。それはおそらく本能のようなもの。でも別に子孫繁栄だけじゃなくて、誰かと話したり、遊んだり、楽しんだりしたいっていうのもあると思う。大人になってしまうと遊ぶ機会は減る。そんな中でもネットなら、比較的簡単に自分を曝け出し遊ぶことができる。何も直接会うことだけが正義ではない。どんな形であれ、どんなコミュニティであれ、人対人であれば、それは立派なコミュニケーションになる。
僕は音楽を通じて人と知り合い、そして楽しんできた。遊んでいたと言ってもいい。しかし音楽ができない人もたくさんいる。全く興味がない人もいる。そんな人は遊ぶ権利はないのだろうか? 否、そんなはずはない。みんな人と楽しく何かをしたいんだ。そう思っている人がふらふら彷徨うように集まってきているのが、このインターネットの生放送の世界だと思った。ネットのことはよくわからなかったけど、僕は確実に自分と同じような匂いを感じていた。
僕は知りたかった。みんな何を思い、どんな暮らしをして、何故ここにたどり着いたのかを。何故そこに言葉を打ち込み、話そうとしたのかを。色んな人にそれを聞くことで、自分の中の何かが少しずつ溶けていくような気がした。
人は孤独なものだとずっと思ってきた。友情や愛情なんてあまり信じてはいなかった。性善説なんてありえない。悪だから、クソだからこそ、人は理想に向かって努力すべきなのだと、そう思い続けていた。でも実は、本当のところはみんな根本的に悪なんかではなく、共通の想いがあるだけなのかもしれない。
それは『人と繋がりたい』ということ。
言葉も、文字も、本も、音楽も、笑いも、映画も、芸術も——電気もネットも、手も足も顏も口も、それを叶える為にあるのかもしれない。
よく考えたら世界は、人と人が繋がるもののみで形を成している。お金も物も仕事も食べ物も、生活のすべてがその上で成り立っている。つまり生きているだけで、もう既に全てと繋がっていると言えてしまう。
少しずつ輪郭が見えてきた。これは僕が音楽をやっていた理由にも繋がる。人に伝えたくて、見てもらいたくて、知ってほしくて、飽きもせずにやっていた。字をたくさん書いてきたのもそう。色んな作品を吸収してきたのもそう。己を知って、人を知って、そしてまた誰かと繋がる為。全ては人ありき。だから『子供を作る』という行為は一番の正義で、『人を育てる』というのは義務にもなっている。
今まで自分本位に利己的に生きてきた。自分のやりたいことを優先して、その副産物のようなものが出会いだった。それに特に感謝や有り難みもなかった。でもしかしたら、それこそが、生きる理由に繋がるんじゃないだろうか。
僕は考えた。そして生放送をした。人と話をすることで、何かが進むような気がした。そして何より人と話をするのが、この世で一番とも思えるほど、心の底から楽しかった。
そんな時間がしばらく続いた。僕は基本的に、ゲームをしながらだらだら喋るというスタイルに落ち着いていた。子供の頃にみんなで集まってワイワイやっている時に戻ったようで、とても楽しく性に合っていた。毎日のように昔のゲームをやっていると、色んな人たちがコメントを残していった。ハンドルネームを付けることができたので、ほとんどの人はそれをつけていた。僕は彼らの名前を覚えて、本当の友達のような感覚で接していた。僕は楽しくてしょうがなかった。全て失ってしまったはずなのに、また少しずつおもしろいことが起こっていた。
見てる人を楽しませたくて、更に増やしたくて、色んなことをした。寝ないでクリアまでぶっ通しでやったり、好きな子供の頃好きだったゲームのシリーズを全てやったり、どれだけ早くクリアできるかタイムアタックのようなこともやり始めた。
人と繋がることが、こんなにも楽しいことだとは知らなかった。ただ画面に向かって話しているだけに見えても、電波の向こうには確かに人がいる。匿名で書かれたなんてことのないコメントでも、間違いなく血が通っている。僕は実際に会って話している感覚だった。そういうのを否定する意見も耳にしたが、全くそうは思えなかった。
ネットと現実は別、なんかじゃなく、ネットは現実と直接繋がっていて、リアルを凌駕するほどのリアリティを持つもの。と、そんな風に思っていた。今の状況の僕には、本当にこれは救いのあることだった。
そんなある日のこと。コメントを連投してくる奴が現れた。最初はあまり相手にしていなかったけど、どうやらやっているゲームが好きらしく、しかも日本人ではないようだった。
話を聞くと日本が好きなアメリカ人で、コメントも全て日本語だった。そしてそのタイピングスピードは恐ろしいほど早かった。
写真を送りつけてきたので見てみると、ド派手な金髪の遊び人のような女の子がそこに写っていた。
なんだこれは? 住む世界が違い過ぎる。僕は交わることのない人種だろうと判断した。
僕が毎日配信をしていると、彼女は毎日遊びにきた。常にものすごいテンションでコメントを打ってくる。「喋りたい喋りたい」としつこいので、通話用のソフトを使い、話してみることにした。
「コジ? ハロー」
子供のような声だった。
「おう、ハロー。元気?」
挨拶を彼女に合わせた。
「めちゃめちゃ元気! ぎゃおおおおおお」
「うるせえよ!」
僕は思わずツッコミを入れた。
「きゃきゃきゃきゃきゃ」
「……ってか日本語上手いな」
「うまいって決まってるだろ? 勉強しとんねん!」
「へぇー」
彼女の名前はリクといった。これが出会いのようなものだった。久しぶりに人と声を使ったやりとりをし、彼女は常にマシンガン打つように言葉を放った。
「来月日本行くから会おーぜ」
「いや、会わねーよ」
「なんで? 会いたい会いたい会いたい会いたい!」
「うるせえ! 日本のどこに来るのさ?」
「東京に決まってるだろーが」
「そうなんだ。なんていう所? 名前は?」
「んーと、友達が一人暮らししてるとこだよ。なんだっけ、メクロ?」
「……もしかして目黒?」
「そうメグロメグロ! お前知ってんのか?」
目黒は高校卒業するまで住んでいた場所。いわゆる地元だった。
「知ってるっていうか、昔住んでたことあるよ。まじで目黒に来るの?」
「友達のコウちゃんが住んでるから、そこでホームステイするんだよ」
「そうなんだ」
なんという偶然なのか。詳しく聞いてみると、昔住んでいた家のすぐ近くのだった。こんな奇跡的なことがあるのだろうか。
なんとなく運命的な何かを感じて、会ってもいいかなという気になった。目黒という街はそれほど僕にとっては特別で、故郷呼べる場所だった。
しかし、伸び切った長い髪、食っちゃ寝ばかりで肥えた身体そこにあった。この状態で誰か会っていいものなのだろうか。いや無理だ。人に会えるような段階ではない。まだ社会レベル的には、ようやくヨチヨチ歩きができるようになった赤子くらいの感覚だった。
「まぁちょっと無理かな。人と会いたくない」
「なんで? 会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい」
「うるせえよ! 今人と会えるような状態じゃないんだよ」
「会える状態ってなんだよ? 恥ずかしいのか? お前、……デブなのか?」
「そんな感じだよ。髪も伸びっぱなしだし、今誰とも会いたくないんだよ」
「じゃあ私がリハビリしてやるから、会おーぜ」
「やだよ」
「なんでだよ? 別に何も気にしねーよ。うちらもう家族だろう?」
あまりにも強引過ぎる。これがアメリカ人なのか? リクはアジア系のアメリカ人だったので、なんとなく親近感はあった。白人や黒人だったら僕は断っていたかもしれない。差別は大嫌いだったけれど、潜在意識的に同じ肌の色というのは、恐怖心が薄らぐものを感じた。
僕らは会うことになった。
まだ赤子の僕はマシンガンに敵わなかった。
家の車で目黒に向かった。本当に久しぶりのまともな外出だった。運転も久々でスピード感と車両感覚に慣れるのに必死だった。
車で待ち合わせの場所に着くと、ド派手な人影が近付いてきた。彼女はこちらに気付くと、勢いよく車の中に入ってきた。
腰まで伸びたド金髪に、アニメに出てきそうなふわふわのドレス、香水とシャンプーが混ざったような匂い。もう存在感からやかましい。
「おー、おめーがこじか、ハロー」
「うっす」僕はあまり彼女の方を見ずに答えた。
「なんだよおめー、緊張してんのか?」
「そりゃするだろ」
「なんでだよ! こっちは会えてテンション上がってるんだよ! ぎゃぎゃきゃおおおおお」
通話はしていたが、本当にこんな人間が存在することに驚いた。
「……お前そのまんま過ぎるだろ」
「なにがだよ? とりあえず早くどっか行こーぜ」
僕は車を走らせた。特に行くところがなかったので、お台場にでも行くことにした。
「おい、どこ向かってんの?」
「お台場だよ、お台場」
「おー、お台場。聞いたことあるぜ」
「アメリカでも有名なのか?」
「渋谷、新宿、お台場、聞いたことある」
「ふーん」
「おめーあんまり興味ないだろう?」
「別にそんなことないよ」
「じゃあなんで元気ないだ。もっと話してや。もっと構ってや! ぎゃおおおおおお」
「うるせえんだよ!」
うるさくて強引過ぎる彼女のことを、僕は嫌いじゃなかった。むしろこのくらいの勢いがないと、絶対に人となんて会わなかったはずだ。こんなテンションの人間はまず日本人にはいないので、おもしろさも感じていた。そして彼女は、僕のルックスなどに関しては何一つ口にしなかった。その事柄は僕に、居心地の良さと安心感を与えてくれた。
お台場に着き、海の近くの路上に車を停めた。
「なんでそんなに日本語話せんの?」
「勉強したんだよ。日本のアニメ見て」
「だからそんなに口悪いのか」
「そうだよ? 悪りぃのか? ぎゃっぎゃっぎゃおー」
あたりを適当に歩き、砂浜に腰を下ろした。
「将来はどうするだよ」僕は質問した。
「んー、日本で働きたい。ビザ取るために働かなきゃいけないから、アメリカで就職活動する」
「なんでそんなに日本にこだわるんだよ」
「こだわるってなんだよ? 難しい言葉使ってんじゃねえよ」
「もっと日本語勉強しろや」
「してるんだよ! うまくなるために日本人としか喋らないようにしてるんだよ。下手くそな日本語喋る人とは話さねーんだよ」
「ふーん」
リクはおもむろに僕の膝に頭を乗せてきた。
「眠いからちょっとここ貸してや」
僕は上から顔を見つめた。
彼女はタマと同い年だった。たまたま日本に来ていて、たまたまこうして会っている。今会える人間はこいつくらいしかいない気がする。無理矢理外に引っ張り出されなければ、こんな場所に来ることはなかっただろう。
下を見るともう眠っているようだった。こいつも子供みたいなやつだ。
それから僕らは、何故か毎日のように連絡を取り、たまに顔を合わせた。全く気を使わない異性と出会ったのは初めてのことだった。こんな本能のままに生きている人間自体初めて見た。アメリカ人はみんなこうなのだろうか。日本人の気を使う感じよりは、こっちの方が断然楽だった。何も気を使わずに「うるせえ!」と言っている時の自分はとても自然体だった。
僕は時々、色々思い出してしまい、メソメソとすることがあった。
「おめー泣くな。大丈夫だよ。お前の元カノとか会ったらぶっ飛ばしてやるから。お前は一人じゃないよ。家族だって言ってるだろ? だから泣くな」
彼女らしい言葉をもらい、僕はそれに救われた。
彼女はしばらく日本に滞在してから、またアメリカに戻っていった。
リクがアメリカに戻ってから、英語の勉強を少し初めてみた。彼女と話していると文化の違いを感じざるを得なかった。例えばアメリカにはサマータイムというものがあって、時期によって時間が変わるのだ。そうすると当然こちらとの時差も変わる。不思議だった。
彼女はクリスチャンで毎週教会に行っている。それはもうごくごく当たり前のことなのだ。
「教会行ってくる」「何しに?」「お祈りに決まってんだろ? おめーバカか?」
こんな具合だ。
英語はおもしろかった。そう思える言い回しがいくつか見つかった。
例えば小指のことを英語で「pinkie」という。たしかに小指は「ピンキー」って感じの見た目をしていると思う。ちなみに人差し指は「pointer finger」、薬指は「ring finger」だそうだ。なるほど、意味を考えるとなかなかおもしろい。
ジャンケンって海外にもあるのかな? あるならなんて言うんだろう。とリクに質問すると「rock paper scissors」と言っていた。うむ、なるほど。石、紙、ハサミ。そのまんまな感じ。そう思って日本のジャンケンを調べると、「カエル、ヘビ、ナメクジ」が由来と書いてある。なんじゃそりゃ。全然違う。けどおもしろい。
ちなみに新聞売りは「paperboy」、牛乳配達員は「milkman」。なんだか僕にはかわいらしく感じる。
そして僕には好きな言い回しがあった。
それは「I have no idea」というものだ。アイディがありません、ではなく「ノーアイディアを持っています」。この、少しも自分を卑下することのない自信に満ちあふれた発想が、日本人の感覚にはないような気がして、とても気に入っていた。
さしずめ僕は「I have no future」といったところか。
僕はノーフューチャーを持っている。
僕は未来を持っていない、より、こっちの方がずっとカッコいい。
そのような違いを知り、狭い世界を生きていたことに気付かされる。一点しか見えなかった視界が広がっていく。バンドやタマに囚われ続けた自分が、少しずつ、本当に少しずつだけど、溶けていってるような気がした。
インターネットでもライブハウスでも、そこに人がいれば、それは世界になる。これは本当にすごいことだ。
配信しながらリクと通話する日々。
一歩も外に出なくても、様々なことが起こった。そしてリクとは本当に家族のような関係になっていた。時には喧嘩をし罵り合い、時には楽しく笑い合い、時には何も話さないまま生活音だけが流れ、どちらかが泣けばどちらかが励まし、僕が配信をすれば彼女がコメントをくれ、彼女の就職活動を僕はできる限りサポートした。
リクは頭が良かった。日本語はマシンガンのようにペラペラで、訛りも少ない。通っている大学なんて世界でトップレベルの学力らしく、そこに特待生で入学していた。しかし話をしていると、彼女は本当に、ただのバカって感じだった。わがままで本能剥き出しで情緒不安定な子供。色々とめんどくさくて鈍臭くて不器用。しかし高い偏差値を圧倒するほどの人間力がある。そして僕らは、学歴や国籍や現状などを全部すっ飛ばして、全くの同レベルで会話をしていた。そんな感覚があった。
彼女に抱いていたのはきっと恋心ではなく、様々な要素を含んだ普遍的な愛情のようなもの。親心や子心、兄弟愛、友愛に師弟愛。それを一言でまとめると僕らは『家族』だった。
この関係はわりと長く続いた。そして彼女は見事に日本での就職を決めてみせた。僕は素直に嬉しかった。そしてこの辺からなんとなく、僕らは別々に、ちゃんと自分の足で生きていかなればならない、と、そんな気持ちが湧き始めていた。これがいつまでも続くはずがない。いつまでもこの愛に依存してはいけない。
配信の方も色んなことをやりすぎて、少々飽きを感じていた。コミュニティの登録者は千を優に超え、なんだか楽しいだけではなくトラブルなども増えてきた。活動がお金になるわけでもなく、そろそろ何か別のアクションが必要な気がしていた。同じことを繰り返していると昔から頭がおかしくなりそうになる。そろそろ潮時だろうと思った。
この頃には身体の方も、だいぶ違和感がなくなっていた。もしかしたらまた、普通の生活ができるかもしれない。そんな感情も芽生え始めていた。
そんな時、高校の友達、アツから連絡が来た。
「よう。久しぶり。今親父と二人で会社やってるんだけど、もしやる気があったら一緒にそこで働かないか? 製造業ってやつで、金型で携帯の部品とかギターパーツとか色んな部品作ってる。一応、物作りに携わってるよ。他のやつはどうでもいいけど、やっぱりお前のことはほっとけなくて連絡した。もしちょっとでも何か感じたら連絡くれ」
すぐには返事はしなかった。少し考えてみることにした。
もしかしたら本当に、普通の生活に戻れるかもしれない。これが最後のチャンスなのかもしれない。今の生活は楽だし楽しいけど、これ以上続けても何も変わらない。ただ少し心が満たされるだけ。だったらこの機会に、新しい世界に飛び込んでみるべきじゃないのか。
音楽以外は特に何もやってこなかった。学歴も手に職もない。ただただやりたいことをやってきただけだ。果たして僕に普通の仕事ができるだろうか。身体は大丈夫だろうか。前みたいに普通に、人間らしい生活ができるだろうか。
僕は小さな期待と大きな不安を抱えながら、眠りについた。目が覚めてからも、同じことを考え続けていた。
「連絡ありがとう。とりあえずしばらく考える時間をください」
とだけ返事を送った。
とりあえず、やるにしてもやらないにしても、外には出なければならない。今のままでは人に会いたくない。髪を切って、体型を整えないと、こんなダサい状態で、アツとなんか会えるわけがない。
まずは身なりを整えるという、初歩的なことから始めることにした。
僕は動きやすい格好をして、夜中に外に出た。いきなり走るのは無理だから散歩から始めた。歩くだけで死ぬほど息が切れた。一時間ほど歩いたら、翌日下半身がバキバキになった。更に翌日にまた外に出た。
それを繰り返していると、早歩きで二時間ほど歩けるようになった。徐々にペースを上げていき、短い距離を走り、疲れたら歩くことを繰り返した。
一ヶ月ほど続けたら、一時間走り続けられるようになった。みるみるうちに体重は減っていった。洗面所で髪を切り、髭も綺麗に剃り落とした。
身体なんとか大丈夫そうだった。たぶん少しずつ治ってきている。バンドをやっていた時と同じではないにしろ、確実にマシにはなった。食事にも気を使い、親が買ってくる弁当を止め、自分で簡単な物を作るようになった。
そんな生活を続け、更に一ヶ月が経ち。そろそろ人前に出られるような気がしてきた。本当に出れるのかはわからず不安だったけど、とにかくアツに返事を書くことにした。
「待たせてごめん。仕事の話なんだけど、やってみたいです。やらせてください。ただ、今すぐはちょっと難しいので、あと一ヶ月だけ準備の時間がほしいです」
僕は書いてみて、初めて自分の気持ちがわかったような気がした。そして送信すると、すぐに返事が来た。
「いいよ、OK。待ってるわ」
僕は外に出る覚悟を決めた。
毎日夜中に運動して、軽めの食事を取る生活を続けた。体重は順調に落ちていった。一番ひどい時に比べると二十キロ以上は優に落ちていた。
あと一週間で約束の一ヶ月になろうとしていた。僕にはまだやらなければならないことがあった。これをやらなければ僕は前に進めそうにない。
それは、軟弱金魚と決別することだ。
ずっと心のどこかで忘れられないでいた。音楽やバンドをもうやろうとは思わない。ただ、あのバンドのシコリが消えていなかった。あの日八王子で録音した音も、まだほとんど誰にも聴かせていないままだった。このままじゃバンドが成仏できない。この気持ちを抱えたままでは前には進めない。僕は音源を捨ててしまっていた。探しにいかなければならない。
メンバーの状況――。クボタに子供が生まれていたことは知っていた。お兄ちゃんはネットで僕と同じような活動を少ししているのも知っている。そしてホシくん。彼は何をしているのかよくわからなかった。僕は連絡を取ってみることにした。
「ホシくん久しぶり。元気?」
僕は車を走らせていた。時々窓の外の風景を携帯のカメラで撮影をしながら。何故かって?
僕はホシくんに会いに行くことにした。彼は今、お祖父ちゃんの家に住みながら、日本酒を作る仕事をしているらしい。そしてなんと、ユキちゃんと既に結婚しており、最近妊娠が発覚したばかりだそうだ。生まれてからでは申し訳ない。会うならきっと今しかない。そう思った。
僕は軟弱金魚の音源のミュージックビデオのようなものを撮ることにした。それを残すことで、あのバンドと決別しようと決めた。作品として残してしまえば、消えることはない。ネット上にアップロードすれば、半永久的に聴くことができる。アルバムを出せなかった僕らにできることは、もうそれぐらいしかないと思った。ホシくんに連絡した二日後にはもう車の中にいた。
長い道のりを下道で走った。高速に乗ればあっという間だろうけど、心の準備と映像の素材が必要だった。東京から福島まで向かう道中を撮影して、その後ホシくんの生活風景や周りの景色なんかを撮る。それを全部繋げて、八王子で録ってもらった音源4曲を合わせる。なんとなく短編映画みたいになればいいと思った。クオリティは求めない。携帯一つ全てを撮影する。なによりも音とホシくんの現状を伝えられればいい。
朝十時に家を出たのに、目的地に着く頃には完全に夜になっていた。途中の山道で何度も事故りそうになり、真っ暗で危険な道ばかりで孤独を感じた。でも、その道を走ることに意味があるような気がした。
ようやく辿り着いた場所は福島県。ホシくんが住んでいる家付近。彼に会うのは、実に四年ぶりだ。
待ち合わせ場所で待っていると、窓をコンコンと叩く音がした。見るとそこには、手を振っているホシくんがいた。僕は助手席の窓を開けた。
「おっす、ホシくん、久しぶり。とりあえず乗ってよ」
ホシくんはドアを開け、僕の隣に座った。
「コジー、久しぶり。わざわざありがとねー。遠かったでしょ?」
ホシくんはちっとも変わらない顔で笑った。
「めちゃめちゃ遠かったよ。下道で来たし、途中真っ暗な山道で何回も事故りそうになった」
「そうなの? 高速で来ればよかったのに」
「んーまぁね。でもなんかゆっくり来たかったんだ。心の準備したかったし」
「なんだよー、別に俺と会うのなんて緊張しないでしょ?」
ホシくんは楽しそうに言った。
「そんなことないよ。久しぶりだしさ。もうどんくらい? 四年ぶりとかだよ」
「そのくらいかなあ? もう三十になっちゃうからね」
「そうだね。信じられないわ」
「……なんかメシでも食べに行く?」
「そうしよっか」
僕らは車を走らせ、近くにあるファミレスに行くことにした。誰でも使っていいという、大きな駐車場に車を停め、ホシくんの車に乗り換えた。
「すごいじゃんこれ、ホシくんの?」
「そうだよ。この辺は車なしだと生活できないからさ」
ホシくんはそう言いながら、少しだけ誇らしそうにエンジンを掛けた。
「東京いた頃は免許すら持ってなかったもんな」
「そうだねー。こっち来てから必死に勉強して、急いで取ったよ」
「へぇー」
運転するホシくんを眺めていた。昔と違ってなんだかたくましい顔をしているように見えた。
「ファミレスとかでいいかな。どっか行きたいとこある?」
「いや、どこでもいいよ。近いところで」
数分走った場所にあるファミレスに車を停めた。
「どう? こっちの生活は」
僕はメニューを眺めながら言った。
「やっぱ田舎だからさー、東京にいる時とは違うよ。俺はこういう静かなところ好きなんだけどね。パチンコ屋もあるし、さっきも待ってる時打ってたよ」
と答えながら笑うホシくん。
「相変わらずだなあ」
僕も笑いながら返した。
「仕事はどう?」
「毎日お酒作ってるよ。もうだいぶ慣れたかな。でっかい蔵みたいなところでやってるんだ」
「へぇー、そうなんだ。見てみたいな」
僕がそう言うと、ホシくんは何かを発見したかのように答えた。
「あ、じゃあ明日休みだしさ、うちの会社見学とかもできるから見せてあげるよ。ユキちゃんも今実家帰ってていないんだ。泊まっていってよ」
「そうなんだ? じゃあ。そうさせてもらおっかな」
僕らは久しぶりの会話を楽しみつつ、出された料理を食べた。食事を終えると、そのままホシくんの家に行くことになった。
「それにしても突然だったよね。よく一人で来たね」
爪楊枝を咥えたホシくんが言う。
「あー、うん。ホシくんに会いたかったしさ」
そう言いながら僕は携帯を取り出し、カメラをホシくんに向け、録画ボタンを押した。
「あとさ、映像撮りに来たんだ、ホシくんの」
「え、そうなの? なんの映像?」
「いや、その、軟弱金魚のミュージックビデオみたいなやつ」
「えー、なんで今更」
驚いたような困ったような、そんな顔をしてホシくんは笑った。
「なんて言うか、俺も来月から就職するからさ、やるならこのタイミングしかないと思って、今暇だし」
「あー、そっかそっか」
「それで動画作って、ケジメつけて、……俺も社会人になろうかなって」
こんなセリフが自分の口から出ているのが、自分でも不思議だった。
「うん、いいと思う。そういうのって大事だよ。でも恥ずかしいからさあ、あんまり撮らないでよお」
彼は照れたように言った。
「大丈夫大丈夫。音声は使わないから。映像だけ撮って、音はうちらの曲にするからさ」
「本当? ならいいけどさ」
しばらく彼の横顔を映し、そのまま質問した。
「ホシくんさ、八王子で録った音源って持ってる? 俺無くしちゃったから、それもらいに来たのもあるだよね」
「あー、たぶんどっかしらにあるよ。パソコンにも入れてあるから、少なくともデータはあると思う」
「そっか、よかったよかった。じゃあ色々撮って、適当に編集するわ。来る時も事故りそうになりながら、一人で撮ってたんだよね」
「危ないよー。とりあえずこの辺は俺が運転するから、その間に景色とか色々撮ってよ」
「うん、そうするわ」
そうこうしているうちに、ホシくんの家に着いた。そこはでっかい日本家屋だった。
「でっけーなあ」
立派だった。門を見ただけで、中の奥ゆかしさが伝わってくるようだった。
「お祖父ちゃんちなんだ。ユキちゃんと三人で住んでるよ」
大きく立派な門を開け、その先の玄関に入った。田舎特有の線香と木材が混ざったような、懐かしい匂いがした。僕は、お邪魔しまーす、と小さく言いながらホシくんに着いていった。廊下を歩き、襖を開けると、大きな和室があった。
「おおー、すげえ部屋」
掛け軸や古めかしい棚と箪笥、ケースに入った日本人形、中心にでんと構える大きな甲冑。立派な床の間だった。
「ここで寝泊まりしてね。俺も一緒に寝るからさ」
「うん、ありがとう。カメラで撮っても大丈夫?」
「いいよいいよ」
僕は携帯を取り出し、部屋をぐるりと映した。しばらく一人で色々撮っていると、ノートパソコンを抱えたホシくんがやってきた。
「たぶんこのパソコンに入ってると思うんだ」
「懐かしいなこれ。これで生放送とかやったよな」
ホシくんがパソコンを起動しているところを僕は映像に収めた。キーボードの空いたスペースには軟弱金魚のステッカーが貼ってあった。
「あー、あったあった。これコジーのアドレスに送ればいいかな?」
「うん。あと一応CDかなんかに焼いてもらえると助かるんだけど」
「うーん、たぶんUSBメモリーとかあるから、それに入れる? そのまま持ってっちゃっていいよ」
「ありがとう。じゃあお願いします」
一通り作業をし、くだらない話をし、お祖父さんに挨拶をし、タバコなんぞをふかし、くつろいだ。運転疲れしていた僕は、敷いてもらった布団に横になり、ホシくんの背中を見ながらウトウトしていた。
ふと目が覚めると、ホシくんも横で布団の中に入っていた。部屋の灯りは消えていた。
「……ホシくん、起きてる?」
そう言うと、背を向けたホシくんがこちらに振り返った。
「起きてるよ。コジー寝ちゃってたね。今携帯でゲームしてたよ」
「そっか」
携帯の明かりに照らされたホシくんの顔が見えた。
「ホシくん、今の生活楽しい?」
「うーん、楽しいよ」
「……幸せ?」
「幸せだよ。ユキちゃんいるし、子供も生まれるし。……どうしたの急に?」
僕には言わなければいけないことがあった。少し寝ぼけている今なら、それが言える気がした。
「いやなんか、俺のせいで人生変えちゃったなと思ってさ。ホシくんは、バンド続けたかったでしょ?」
「バンド? あーまぁ、……それはそうかなあ」
「……ごめん、人生狂わせちゃって」
ホシくんは携帯をいじる手を止めた。
「謝らなくていいよ。バンドが終わったのはコジーだけのせいじゃなくて、俺らの責任もあるんだからさ」
「……そうかな」
僕はホシくんにバレないように、涙を流した。
「確かに最初はぶん殴りに行こうかとも思ったよ。あの下北沢の時みたいに、コノヤローってさ。……でもそんなの意味ないって思ったし、バンドが終わるのを止められなかったのは、俺のせいでもあるからさ」
「…………」
「だから自分を責めないで大丈夫だよ」
ホシくんは相変わらずやさしい男のままだった。僕は咳を一つして、涙を無理やり抑え、口を開いた。
「……俺、ひとつだけ救いなのはさ、ホシくんやクボタに子供ができたことなんだ。もしバンド続けてたら、たぶん結婚とか子供とか考えられなかったじゃん? だから、解散したことによって子供ができたんなら、それだけは良かったかなって」
「うん。そうだね。バンド続けてたらこうはなってなかっただろうね」
僕らは少し沈黙した。
「……ホシくん絶対いいパパになるよ」
「えー、そうかな?」
「子供生まれたらまた来るよ」
「うん、会いに来てよ」
「約束するよ」
目が覚めるともう朝になっていた。東京とは違い、この季節でも鼻が凍るほど寒かった。ホシくんは寝ぼけ眼で携帯でゲームをしている様子だった。僕は早速カメラを向けた。
「ホシくんおはよう」
ホシくんが運転する車に乗り、辺りを走った。観光して、飯を食って、ホシくんの職場に行って、たくさん話をした。僕はその間も、なるべくカメラを回した。ホシくんの現状を東京のみんなに伝えたかったからだ。そして僕らの音源も、絶対に残さなきゃいけないと思った。僕らを知っている人にも、知らない人にも、これから生まれてくる人にも、僕らがやっていた音楽を聴いてほしかった。きっとこれは僕にしかできないことだ。だから、なんとしてもやり切らなければならない。
僕らは最後にラーメン屋に行った。ホシくん曰く、近所で一番美味しい店らしい。
「ホシくんの職場すごかったな」
「でしょ? たぶん百年くらい前からあるんじゃないかなあ、あそこ」
「へぇーそうなんだ。二十代のうちにできて良かったね。就職」
「そうだねえ。コジーも次の仕事、社員でしょ?」
「うん。一応そういう話になってるよ。俺らもやっと社会人で、今年もう三十だぜ? やばいよな」
「初めて会った時は高校生だったもんね。トップスで」
「ホシくんに子供ができるとか、まじで信じれんよ。どんな気持ちなの? 親になるのって」
「うーん、……まだわかんない。生まれてみないとさ」
「そっかー、そういうもんかあ」
「うん。でも可愛いんだろうなあ、きっと」
ラーメン屋を出た。支払いはホシくんがしてくれた。ここへ来てから全てホシくんが払ってくれていた。立派になったもんだ。
ホシくんの家まで車を走らせる。そろそろお別れの時間が近付いていた。僕はこの間もカメラを回し、インタビューのようなことしていた。
「ホシくん、あなたは今、幸せですか?」
「うん。とっても幸せだよ」
ホシくんは本当に幸せそうに、そう言った。
ホシくんの家に着き、駐車場まで歩き、僕は乗ってきた車に乗り込んだ。
「じゃあね。色々ありがとう。楽しかったよ」
「うん、わざわざ来てくれてありがとうね。帰りは高速乗るんでしょ?」
「そうするよ。事故りたくないし」
「気を付けてね。また遊びに来てよ」
「うん。子供の顔、見に来るよ」
僕らは握手をした。
「じゃあまた」
ホシくんは見えなくなるまでずっと手を振っていた。
帰り道はずっと真っ直ぐな道だった。行きとは違い、事故りそうな気配はなかった。目的地に向かう時より、帰り道の方が早く感じのは何故だろうか。昔原付を乗り回してる時によくそんなことを思った。
これから一体どうなっていくのだろう。
僕は幸せにならなくていい。その分ホシくんとユキちゃん、そして生まれてくる子供にそうなってほしい。離れ離れになっても、バンドメンバーじゃなくなったとしても、彼には絶対に幸せになってほしい。
こんなことで罪が消えるわけない。そんなことはわかっている。しかし僕にはもう少しだけやらなきゃいけないことがある。僕にしかできないこと。それは、彼らの存在をこの世界に残すこと。そうしなければ僕は前に進めない。
僕はパソコンを開き、撮ってきたばかりの映像を転送し、ミュージックビデオの制作に取り掛かった。
仕事が始まるまではあと少し。
それまでになんとしても完成させなければ——。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?