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父のこと

わたしが大学三年生の時、父はある日突然家を出て行った。突然と言っても事前に母との間で話し合いはあったのだろうが、わたしにとっては”突然”だった。
父とは仲が良かったわけでも悪かったわけでもない。幼い頃、一緒に遊んでくれたことは今でもよく覚えている。わたしは一人っ子なので、当時の父はわたしと一緒に遊んでくれる友達のような存在だった。小学生の頃は家で一緒にテレビゲームをした。当時流行っていたドンキーコングやマリオカートを毎晩食後にやっていた。父はゲームがとても好きだった。気がつくとわたしよりどんどん上達していて、次々とクリアしていった。そのうち他のゲームにもハマり、最終的に父が一人で遊ぶようになっていた。
数学が得意だった父は、わたしの勉強をよく見てくれた。わたしは算数が苦手だったので、解けない問題を前によく泣いていた記憶がある。父は、いつも熱心にわたしの算数の問題を解いていた。わたしに教えるというよりは、問題を解きながら答えを導き出そうとしている過程を父自身がすごく楽しんでいたのが印象的だった。
父は手先がとても器用だった。壊れてしまったキーホルダーやネックレス、電子機器なんかは工具を出してきてあっという間に修理してくれた。そんな父を隣で見ながら、密かにかっこいいなと思ったりもした。
中学生の頃、わたしが休日部活の練習から帰ってくるとよく焼きそばを作ってくれたのを覚えている。父の作る焼きそばは、とても美味しかった。具材も几帳面に細かく切られていたし、なにより作っている姿がなんだか楽しそうで生き生きしているのがよかった。メールも結構マメにしてくれて、部活帰りに携帯を見ると、「今日のお昼は焼きそばです!^_^」なんて送られてきたりした。休日の焼きそばと言えば、父の作る焼きそばだった。
高校生になると、父の仕事が上手くいってなかったこともあり、父の口数が減った。元々無口な性格ではあったが、さらに自分の殻に閉じこもるようになった。夜勤明けで帰宅する父とマンションの階段ですれ違った時、酷く疲れた顔をしていた。一瞬、誰だかわからなかった。父があまりに毎日暗い表情をしていたのと、機嫌が悪いことが多かったので一度たずねてみたことがある。「なんでそんなに毎日機嫌悪いの?」と。すると父は仕事の愚痴を語り出した。いやいやそんなの会社で働いてれば嫌なことの一つくらいあるだろうよ…と思うが、父は人付き合いが本当に苦手だった。嫌なものは嫌とはっきり言うし、みんなが楽しんでいても自分が面白くないと感じたら、つまらないと言うし、誰がなんと言おうと自分の意見を貫き通すことがあった。九州男児なのもあってか、非常に頑固な性格だった。父のそういうところは好きになれなかった。父は、社会の中でとても生きづらそうだった。
そんな父だが、わたしが私立の芸術系の大学に進学することは、嫌な顔をせず学費を援助してくれた。今思うと、父にとって大きな負担だったと思う。

父が家を出てからしばらくして一度だけ、父と二人で夜ご飯を食べに出掛けたのを覚えている。なにを話したかはっきりとは覚えていないのだが、大学の卒業制作が忙しいだとか、就職はどうするだとか、そんな他愛もない会話だったと思う。帰りの電車は、途中まで同じ方面だったので少しだけ話をした。
わたしが先に電車を降りる時、父はわたしに向かってこう言った。「またご飯食べに行こう」と。わたしは「そうだね」と大きく手を振って別れた。無口で不器用な父と交わした約束だった。その日を境に父との連絡は途絶えていった。いつの間にか、父との約束も忘れてしまっていた。携帯を何度か買い替えるうちに新しい連絡先を教えなくなってしまった。またなにかの機会に会えばいいかと思っていたのだ。それからわたしは無事に大学を卒業し、就職した。何度か転職もした。父に会わずに八年が経った。わたしは二十八歳になっていた。
二〇一七年一月。年が明け、突然母からメールが届いた。父が腸閉塞で入院したとのことだった。父は地元の病院に緊急入院したらしい。心臓の鼓動音がいきなりドクドクとうるさくなった。すぐに母に電話をかけた。不安げな母の声が聞こえてきた。検査してみないと詳しいことはわからないということだったが、癌の疑いがあるらしかった。数日後、CT検査で大腸癌であることが判明。転移はなかったので、手術すれば完治するものだと思っていた。
八年ぶりに再会した父は、病院のベッドに横たわっていた。弱々しく、すごく小さく見えた。鼻に管が入っていたのでうまく会話もできず、苦しそうだった。どうしてこんな姿になるまで放っておいたのだろうか。父は変なところで尋常じゃない我慢強さを発揮する。変わってないなぁ…と思った。担当の医者から話を聞くと五年前から会社の健康診断で再検査判定が出ていたらしいが、無視していたらしい。自分自身のことはいつも後回しなのが父らしいな、と思った。さらに父は病院とか医者とかそういうのを信じない。父は、ギリギリまで病院に行かなかった。顔色が悪く、腹痛で辛そうだった父を職場の人が心配し、救急車を呼ぼうかと提案してくれたのに父は断ったらしい。痛みに耐えてそれほど我慢をし続ける理由がわからなかった。なんのための意地なのか?最終的にこうなることは予想できたはずなのに…。わたしは可哀相という感情よりも、父の想像以上の頑固さに少しがっかりした。人に気を遣われたり心配されたりすることが苦手な父親だったが、結局みんなを巻き込み心配をさせて迷惑をかけてるじゃないか。
手術当日。手術前に少しだけ父と会話ができた。「痛む?」と聞くと「痛くはない」とのこと。後からわかったことだが、相当痛いらしい。どこまでも我慢強く意地っ張りな父は、わたしには弱いところを見せたことがなかった。昼頃になると、他の患者さんの昼食が次々と病室に運ばれてくるのだが、当然父の飲食は禁止されていた。父は「匂いがこっちまで入ってくるからつらいよね…」ぽそっとわたしに言った。わたしは、「治ったら、またご飯食べに行こう」と元気よく父に言った。父は、一瞬嬉しそうな表情を見せたが、寂しそうに呟いた。「先のことはまだわからないから…」父は、とても遠くを見つめていた。今思うと、この時、父には全てがわかっていたのかもしれない。
手術室までは、看護婦さんとわたし、父とで歩いて向かった。エレベーターで上がったひとつ上の階が手術室だ。手術室まではベッドで寝ながら運ばれるかと思っていたら、歩かせるのには驚いた。父はヨロヨロしながらゆっくりと歩いた。手術室の前まで到着すると、父に「がんばってね」と声をかけた。父はうなずくと、看護婦さんと手術室に入っていった。手術室の重たい自動扉が左右からゆっくりと閉まっていき、父の弱々しい後ろ姿がだんだんと見えなくなった。無事に帰ってくることだけを、ただ静かに祈った。
手術中、父と最後に会ったあの夜のことを思い出していた。そういえば、あの頃の父の台詞を、今度はわたしが使っていた。「またご飯食べに行こう」父は絶対に完治して、一緒にご飯に行ける、そう強く信じていた。
大腸癌の手術は成功したが、ICUに運ばれると、もうそこから出ることはできなかった。想像以上に父の状態は良くなかったのだ。癌はもうなくなったんじゃなかったのか?父はこのまま良くなっていくんじゃないのか?風邪なんてめったに引かないあの丈夫な父が…?わたしは混乱していた。父は毎日必死に病魔と闘っていたが、病状は日に日に悪化した。わたしの知っている父の顔や身体が、見たこともない酷い姿形になっていき、見てられなかった。何度も何度も涙を流した。腹膜炎や虫垂炎を併発し、腎不全になった。危篤状態から奇跡的な回復を見せ、一命を取り留めたかと思ったが、肺炎を起こし呼吸不全になった。
二月十四日に父は息を引き取った。五十九歳だった。父も残された家族も、散々苦しんだ一ヶ月だった。父がこの世からいなくなったことがよくわからなかった。まだどこかにいるんじゃないか?道端ですれ違ったりしないだろうか?そう思ったが、時間が経つにつれてわかってきた。どうやら本当にいなくなってしまったらしい。
父が亡くなった翌日、父の夢を見た。父が現れる夢は、生前も何度か見たが、この時見た夢は本当にいい夢だった。録画してデータ保存しておきたいくらいに。父と向かい合わせで一緒にご飯を食べていた。お店の名前は、「福屋」というところだった。天国にあるお店なのだろうか。お店はこじんまりしていて昭和っぽさを感じさせる趣のある感じだ。こういうお店好き、そう感じた。
料理は家庭的なものが多く、どれも美味しかった。父が嬉しそうにご飯を頬張っていたのが印象的だった。わたしが父に「また絶対来よう」と言いかけたところで目が覚めた。父はちゃんと覚えていてくれたみたいだ。父と最後に会ったあの日のように、一緒にご飯に出かけられた。こちらの世界ではもう父に会うことはできないが、夢の中でなら何度でも会える。父はそう教えてくれた。父が亡くなるまで、悲しんでいることが多かったが、夢から覚めたわたしは少しだけ笑顔になれた。

父は生前、幸せだったのだろうか。父が家を出てから約八年間も会わないまま、亡くなる直前もまともに会話できずにこの世を去ってしまったので、父がちゃんと幸せだったのかが気になる。こんなことになるのなら、もっと早く会っておけばよかったと、何度も後悔した。父は今頃、何をしているだろうか?亡くなってしまったあとも、嬉しい楽しいと感じることはできるのだろうか?そうだったらいいなと思う。父の存在はこの世からなくなってしまったが、わたしの心の中では今もずっと生き続けている。これからもずっと。今日もまたふと、父のことを考えていた。
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