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[連載6]アペリチッタの弟子たち~文学のファンタジー~第1部 文学のファンタジー~HSP/文学は1:1?/言語対貨幣?言語対インターネット?

毎晩夢にでてくるようになった魔法使いアペリチッタの書いた本、という体裁で語られるこの連載は、ことば、こころ、からだ、よのなか、などに関するエッセーになっています。

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「文学のファンタジー」
 
第1部 文学のファンタジー 
  
HSP
 
 なぜ、僕が本を読み、本を書くか?その答えを単純に言えば、そのことを僕が好きだからだ。好きなものであるから、そこに多くは求めない。文学が非生産的であろうが、「伝わらない」ものであろうが、「もうからない」ものであろうが、そんなことはどうでもいい。
 だが、自分が好きな対象であるからこそ、何か、そこに長所やある力があることを示したい。
 しかし、不思議なことに、まず、僕の頭にまず思いうかぶのは、文学の短所、悪い点についてなのだ。
 また、ぼくが「文学好き」といっても、どんな「文学」も好きというわけではない。作品によっては、共有、共感ができず、手に取ってみたものの最後まで読めないことも少なくない。
 例えば、「タブーを破る」という作品も、ぼくの中では、それはタブーではなく、ただ醜く気持ち悪いことだけのこともある。実際の日本社会では、1年間に1000件を下回る数しかない「殺人事件」は、日本の本(やテレビなど)の世界では、一日に1000件をはるかに上回る数がおきている。また、不治の病で亡くなっていく悲劇のお話は、小学生のときから繰り返し本で読んだり映画で観たりしている。もう、「殺人」とか「不治の病」というものについて「鈍感」になってしまっている自分がいる。そして、実際に経験すれば、それらは決してドラマではなく、「上手に対処していかなければならないもの」だということも、もう知っている。
 「文学」は、読者に「よりそい」「共感させる」力があるという。だが、われわれには「よりそい」「共感させる」が、言葉とは違う表現方法のものだって身近に多い。たとえば、それは、音楽や絵やスポーツだったり、あるいは身の回りのできごとや旅にでたときの風景だったりする。そして、少なからず、それらは言葉よりもその効果が大きい場合がある。
 また、「文学」が「よりそい」「共感させる」力がある、というのは一種きれいな言葉だ。これを悪い言葉でいえば「今ある状況から脱出不可能にする」ということもできる。本当は、「本を捨て戦わねばならない」のを隠したりもする。もちろん、「戦う」ことだけがよい選択というわけでないが。
 さらに、ある少数の人とっては、「文学」が、精神が疲弊する原因になる。宗教に「洗脳」されたようかのような状態になったりするときもある。
 それは、あたかも、悪魔によって「呪いをかけられた」かのような状態だ。では、そんなとき、「呪いをとく」文学はないのか?だが、多くの場合、その呪いには「呪いをとく方法をおもいだせないようにする呪い」が同時にかけられている。
 このような、「文学」に「ふり回される」人のことを、「周囲の人」に「ふりまわされる」人、HSPという概念をあてはめて考えてみたい。
 
 HSP:Hyper Sensitive Person
 (「大人になっても敏感で傷つきやすいあなたへの19の処方箋」長沼睦雄)
 
 HSPの特徴として、周囲のわずかな変化も敏感にキャッチし、人の喜びや悲しみを深く感じられる。一方、過剰に同調して人にひきづられたり、過剰に神経を使いすぎてエネルギーを消耗しがちだ。直観や第六感に優れ、ひらめきに冴え、ひとりでいる時間を好み自分の世界にこもりやすい、とあげられている。これらは、まさに「文学」、文学を読む者、あるいは書く者、それにたずさわる者たちの性格をかなり言い当てていないか?
 HSPは、生まれつき持った気質であって、病気ではなく、障害でもない。精神科や神経科、心療内科にいっても、HSPと診断されることはない。5人に一人はHSPと言われ、全体からみれば、少数派であり、「臆病」「引っ込み思案」「神経質」などというレッテルを貼られがちで、敏感さのためにとても生きづらいことはなかなかわかってもらえない。大切なのは、生きづらさを解消できるように、心を強く培っていく努力をしていくことだという。
 ここで、心を強く培っていくための一つの方法として、小説を読む方法がある、といったら、それは大きな勘違い(KY: Kuuki ga Yomenai)?
 いずれにせよ、ここで確実に言えることは、鈍感なのにきりがないように、敏感なのにもきりがない、ということだ。
 
文学は1:1?
 
 今の社会は「活字ばなれ」がすすみ、ある調査では、大学生の50%は、1年に本を1冊も読まないとのことだ。社会にでると、もっとその割合は増えるだろう。実際、僕の周りでも、本を読む人は探すほうが大変なくらい。 
 いわんや、文章を書くということとなると、周りには誰一人いない。
 この「活字ばなれ」は、インターネットの普及によるものなのだろうか?「活字ばなれ」は、文学に敏感になることのない人たちの「活字ばなれ」の傾向を言うのでないか?おそらく、文学に敏感なHSPの数は、「活字ばなれ」にもかかわらず、インターネット社会でも変わらないのではないか?と予想される。むしろ、インターネットによって、自分の身近にはいない「文学好き」の人をみつけることができる、今までと違う世の中になった気がする。
 さて、僕は、「文学」でなく、外科医を長く職業としてきたので、他の方より、病院に入院している人をたくさんみてきている。病の治療をするのが仕事とはいえ、入院中、患者がどのように過ごしているのか?ということは気になりなるものだ。
 その中で、40歳で大腸癌で亡くなったある男性が、亡くなる直前の病床で、常にコミックのNARUTOの単行本を読んでいたということが、ぼくの記憶に残っている。彼はいわゆる、漫画オタクではない。「子供が、よく読んでいたのを、入院が長くなって暇なので、読みはじめたら、はまってしまった」という。25歳で胃癌で亡くなったある男の子も、入院中、毎週届く少年コミック誌を楽しみにしていた。そういう僕も、そんな、死とむきあうような、厳しい経験はしたことがないが、毎週のコミック誌が生きがい・救いだった時期がある。日本のコミックやアニメは、不治の病と闘うときや人生に行き詰まった時に勇気を与えてくれるくらい、実際に力をもっているのだ。
 では、それに比べて、「文学」は、どうなのか?正直、病床で小説を読んでいる人はほとんどいなかった。それは、おそらく、日常的に小説を読んでいる人の数と比例して少ない?
 皮肉な言葉はいろいろでてくる。平和で、まだ自分にかまける余裕のある人たちが、自分をさらに肥大化させるために、「文学」を読むのだ、とか。
一方、なぐさめをいえばこんな風になる。文学は、常に少数派の立場にたっている。多数派からおちこぼれた、感覚に対し、訴える。すべての人に訴える必要はなく、限られた少数の人にとどけばよい。人の魂が、数の多少にかかわらず貴重であるよう、読者の多少は作品の価値とは関係ない。ひとりでも、その作品で誰かを救えたら・・・その作品はベストセラーにならなくても価値がある。もちろん、作者個人以外の他人を救えるような作品を書くことは、実際、至難の業なのだ。
 僕個人は、狭いが専門的な、科学論文の世界の経験はすでに少しある。星の数ほどの雑誌、論文。とはいえ、有名なNature,Scienceにのるような論文は、読んでみれば、やはりそれなりの価値はあると思える。より、基本的なことの発見。本質的なこと。小学校や中学校の教科書にのるような、あるいは書きかえるような発見。おおよその共通感覚が科学の世界にはある。
 もちろん、そんな大きな発見ではなくても、われわれは報告として、科学論文を書く。それが、博士号をとるためとか、高い職を得るための業績づくりのためとかいう動機はおいて。それでも、誰かが引用してくれればちょっと嬉しい気持ちになる。
 では、文学は?ベストセラーになる本が本質的な話を書いているというわけではない。本質的な人間の感情に訴えている?文学に本質論うんぬんはナンセンスだ?一般の人が読まない文芸雑誌にのるような小説が本質をついている?人文社会の専門雑誌にのるのが本質的?だが、科学論文の世界では、一番本質的といわれるNature,Scienceは、売上げも他雑誌にくらべて、断然高いのだ。
 ここで文学と科学を比較して、何をいおうとしているのか?文学のいびつさを指摘しようとしてるいのか?いや、僕は、やはり文学の本質、特長というものについての議論は成立するのでは?と問題を提起したいのだ。ベストセラーになるのか、文芸雑誌にのるのか、人文社会の専門雑誌にのるのか、そういうことはちょっと経済原理や権威・アカデミズムの原理などにまかせて、横に置いておいて。
 記録、データーベースとしての、かきことばの役割は、コンピューターとその記憶装置にまかせておけばよい。(もちろん、コンピューターの機能には、データベース機能の他に、計算機能というものがあることは、専門家以外の人々からは忘れられがちだ、ということは、コンピューターの名誉のために付け加えておきたいが)。
 文学の特長は、その恒久性にあるのだろうか?否。文学もまた、音楽のように、その音が鳴っている間だけひびき、その場かぎりで消えていくものだ。絵のように、その前をはなれれば、消えてしまうものだ。つまり、文学の魔法は、他の表現とは異なる「独自の時間」があるものの、やはりその場かぎりで消えてしまう
 この、文学「独自の時間」について、解析しようとしたひとつの試みが、ぼくの「存在論的英文法序説」の目的のひとつだった。そこでの言葉をつかえば、
「一般に、A=Bに代表される、科学的言語や隠喩的言語は、直接に五感でしられる現実性とは異なる次元の現実を開示する作用をもつ。その際、科学的言語は上向きの、隠喩的言語は下向きのベクトルで作用している」
文学にのみ特有な、この上向き下向きのベクトルによる現実を開示する作用、を、ぼくは「文学のファンタジー」とよびたいと思う。現実とは、異なる世界を開示する力のことだ。
 音楽や絵画や映画で救われたような気持ちになるように、文学作品によって救われる人が、たった一人でもいれば、その作品は成功だ。それが、偶然の、その場かぎりのものであってもその価値は下がるはずはない。そしてその出会いが、その人にとって決定的であることが実際ある。僕が、かつて経験したように。
 だから、あなたに届くような文学作品も、きっとある。
 
言語対貨幣? 言語対インターネット?
 
 現代社会は、インターネットに象徴されるように、世界規模で情報が伝達・交換される時代になってきている。
 だが、実は、現代社会での情報の伝達・交換の手段の中のチャンピオンは言語ではなく貨幣だ(インターネットは、パソコンの売買が前提となっている!)。貨幣が伝達するものは、商品価値に限られているが、それは、多様な、商品という現実性と、価格の定量性という客観性に支えられている。貨幣の交換場所は、商品や銀行など(あるいは、最近ではインターネット上?)に限定されているが、貨幣という世界言語は、各国の言語や風習の壁をやすやすと乗り越えて、しばしば人間同士の交流のないところにさえ商品を送り込む。世界のいたるところで、繰り返し。商品・貨幣の伝達・交換がおこなわれており、その空間的広がり、規模、スピードは言語の比ではない。世界は緩やかに単一市場を形成しつつある。この貨幣経済のもたらした確かな豊かさの中で、「革命」という言葉はもう遠くにしか聞こえない(せいぜい聞こえるのは「IT革命」くらいだ!)。かわりに、残されたのは、経済格差という(解決可能な?)問題。
 言語は、権力に従属するように、この貨幣による伝達・交換が円滑に行われるのを助ける役割を果たしている。実際の商品の売買のかけひきの場面で、言語が重要な役目をはたすのはもちろん、「電子マネー」も言語による貨幣に対する援助の一形式といえるだろう。
 さらに特徴的なこととして、実際の商品売買とは無関係なところ(各メディア上、あるいは日常会話など)においてさえ、「消費欲望をかきたてる」イメージをねらった言語が好んで使用される傾向がある。商品の売買のかけひきの場面、CM、商品広告が「消費欲望をかきたてる」戦略をもつというのは当然のことだ。注意して観察すれば、雑誌や新聞、そして日常の会話の中に、「消費欲望をかきたてる」イメージが数多く入り込んでいることに気づく。やや強引な例だが、見知らぬ裸の美人を手にいれたいという衝動と、思いもしなかった素敵な商品を欲しいと思う気持ちには、類似するものがある。
 この類の欲望は、おそらく太古より人間のもっている欲望の一形式なのだろう。しかし、現代社会において、欲望の中のある一形式が突出した形になっている。
 さて、一方、言語は、その中立性をもつ限り、力に従属するだけではなく抵抗するという可能性をもっている。貨幣が問題になるのは、それが「人間性」をも売買する可能性をもつことだ。この、商品・貨幣による伝達・交換の世界と人間の間に生じる矛盾を、局所的に告発したり調整したりているのは、やはり言語だ。
 もちろん、話は、貨幣対言語というような単純なものではない。言語が従属にも抵抗にも働くように、貨幣にも(やはり、その中立性からくる)二面性がある。愛が売買されるのは困るが、憎しみの売買は時に平和をもたらすこともある。もし、憎悪の相互連鎖が、賠償という形で貨幣により断ち切れるなら、戦争や喧嘩はずっと減ることだろう。
 日本の医療問題の本質は、人間の行う医療活動を(「中立性」を保つため)「点数化」(=貨幣で計算できるものにする)したことに由来する。でも、それが、様々な解決不能な医療問題をひきおこしている一方で、世界に類をみない「国民皆保険制度」を支えていることはまちがいない。
 言語や貨幣はその中立性から、それを扱う方法で相異なるふるまいをする。そしてその扱いは人間の手、あるいは我々個人の手にゆだねられている。その意味で、我々一人一人が、言語や貨幣についてよく考えて判断せねばならない機会の多い時代に我々はいるといえよう。
 最後に、「文学」を好きな一人として、僕は、低迷する文学や詩などのかきことばに対して、ひとことエールを送りたい。
 「文学」は、交換性が乏しく、商品・貨幣交換の速度についていけない。また、「文学」の伝達するものが、「消費欲望をかきたてる」イメージをもつことが少ないどころか、そのようなイメージを壊すような作用をねらったものも中にはある、というのも低迷の理由にあげられるかもしれない。
 だが、文学・詩の低迷が、単に商品・貨幣交換の世界からおちこぼれているというだけであるなら(要するに、もうからないということだけであるなら)、むしろ、この劣等生にこそ期待をよせられるとも考えられる。もし、世界が単一市場へむかっていて、その外部の反対勢力が消滅しつつあるとしたら、この世界に対する抵抗は、その内部の、市場原理に乗れない場所からおこってくるはずだからだ。これは、かつての、資本主義対共産主義とか南北問題といった、地図上で色分け可能な平面的なものではなく、すかしてみなければ同じ色にしか見えないといった、立体的な対立構造をとっている。
 そのとき、科学的あるいは隠喩的言語といった、かきことばの、現実の別の次元を(あるいは隠蔽されていたものを)開示する作用は、つまり「文学のファンタジー」は、その威力を発揮すると期待される。

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