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高い服、安い服。

こんにちは。
今週はワチャワチャと仕事が始まり、私の本業でもある糀屋の味噌づくりワークショップを再会する運びとなりました。そしてその撮影を敢行したってワケ。

予定していた諸々も滞りなく事は運び、ひとまずの安堵に胸を撫で下ろすといった本日午後。ゆるゆるしてる場合じゃねぇ!って事で筆もといスマホを握ってnote更新でございます。本当は四六時中ゆるゆるしていたいし頑張りたくない。ビールでも飲みながら映画かアニメでも観てゲームして寝ていたい。

まぁそれをやるには途方もない時間と財が必要です。どちらも持ち合わせていない私は馬車馬の如く働かざるを得ないのです。

なんの話だっけ。

そうそう、出品・展示が決まりました。
armiさんからのお誘いで。
また情報が揃いましたら改めて告知します。


さーて、本日のタイトルを今更眺めて何を書き殴ろうか考え始めています。考えてもしょうがない、思い付きでタイトルを書いた過去の自分に引っ張られながらリビドーにも似た思い付きのあれこれを吐露してみようと思います。着地点すら見えてないですが、書き終えた頃の私を信じて進んでみましょう。

高い服。

はい。
まぁ世に言うハイファッションとかハイブランドとか、一口に「高級品」と呼ばれてティア分けされてしまうこちら。
当店にもたくさん並んでおります。マルジェラとかマルジェラとかマルジェラとか。
とにかく値段が高い、それに尽きます。この円安も手伝ってCO-EDのレザーコートなんか160万円オーバーですって。リック・オウエンスのポンチョも、全身にダイニーマ使ってるとはいえ120万円。
加工技術が優れているのか、それとも素材が高いのか、はたまた両方なのか。それとは別にデザイン料が加味されているのか。プロモーションに多額を費やしているのか。

まぁ普通にその全部が乗っかって市場価格になっているのが現実あります。モノを作る哲学が備わっていなければブランドにはなり得ませんからね。ボッ◯クリだの成金だの何だのと揶揄されようが、そこに需要があれば付加価値としては妥当なものです。
塩ビのプールバッグみたいなものもバレンシアガのタグが付いていれば40万とか、そんな世界でもあります。普通に興味のない人から見れば単なる透明なビニールバッグですが、好きな人からすればデムナがデザインした至高のバッグです。

高い服を見た時に思う違和感はきっと「原価」みたいなものをその服に見出してしまおうとする事がきっかけなのかもしれないですね。
ピカソの絵画を「キャンバスと絵の具しか使ってないのに高すぎる!」なんて言う人はいないと思いますが、全ての値段は原価だけではなく需要と供給によって成り立っています。
たとえば100億円の服を作りたければ、手持ちのTシャツに「100億円」という値札を下げて売りに出せば完了です。誰にでも100億円の服は作れます。ただ売れるかどうか、続くかどうかがこの世の中の自由経済というもの。

ブランドとは何か、高い服とは何か。
色々と考えさせられますね。


安い服。

こちらは別に揶揄する訳ではないですが、数ある量販店に行くとやはり真正面から食らうのは服の価格崩壊とも呼べる上代。正直言って安すぎる。
仕事柄わたしは縫製や布帛のお仕事を生業とする職人さん達と合流する機会が多くありまして、そこでの所感というものが為人にあります。
デザインする人がいて、サンプルを作る人がいて、生地を作る人がいて、パターンを引く人がいて、裁断する人がいて、縫製する人がいて、物流に乗せる人がいて、売る人がいて。
その人達みーんなの利益が乗ってこの価格。とんでもない物量の中に利益が薄ーく乗ってるんだろうなぁとか思いつつ、たとえば3万円のTシャツ1枚売ったのと3000円のTシャツ10枚売った利益が等しいならそこに携わる人と物量に利益が相殺されて云々…とまた思慮が始まります。

そこにある服は「誰かが作っているからここにある」これに尽きますので、つまりそこの服にぶら下がっている値札を付けるもっともっと手前からたくさんの人達の生活が見えてくる訳です。もっと高くしてほしいと思いつつも、それはエンドユーザーがそっぽを向いてしまう事にも繋がります。
10万円の利益を出すには、1000円利益のモノを100個売らなくてはいけない。100個売るのも相当大変ですし、100個作るのも相当大変です。そして1000円の利益全部を独り占めできる訳じゃありません。じゃあ値段を上げて利益幅を増やせば?その値段で買ってくれていた人達から「高い」と言われてお客が少し離れるでしょう。100個売っていたものが80個しか売れない、利益が1200円になったとしても9.6万円で4000円の赤字。

眩暈がしてきましたね。
モノを大量に作るのも大量に売るのも本当に大変なのです。


高い服と安い服。

私は自分のお店で「とても高い服からとても安い服」をひとしきり扱っています。
高いものだとコートとかセットアップなんか◯◯万するし、アーカイブも◯◯万、スニーカーですら◯万。安いものは2〜3000円それ以下のものも。

先ほど来書き連ねてきたような様々な人の思惑や哲学の息吹が宿った素敵アイテム、それらは当然に高い値札が付いています。一方で私が扱う安いものというのは、量産品のくくりとはまた違う「打ち捨てられゴミになる筈だったもの」つまり古着を一部扱っています。これも別にモノの価値がどうのこうのではなく、需要があるだけの値段を乗っけている。それに尽きます。

「高いから素材が良い優良品。安いから粗悪品。」
なんてのはあまり無いと思っています。
私に限った話ではなく、これは世の中の大部分に通じる事だと。(例外はありますがまたそれは個人的にお話します)

急に車の話をしますが、かつてのエンツォ・フェラーリが「ロードカーを売ってF1に出るための資金を稼ごう」と奮起したフェラーリは、その実で世界F1最多優勝回数を誇ります。出た利益から責任を果たす。当たり前のことですが、これが出来ているからフェラーリというブランドが成り立ちます。ダイヤモンドで車を作っているから原価が高いのではなく、そこには歴とした需要と供給に基づいた関係があるのです。

高いから良い、安いからダメなのではなく
その利益の先にある哲学に感動するか否かが大切であると。

そのモノの値段の先には、携わる人の生活があり夢があり目的がある。安いも高いも関係なくです。
たくさんモノを作れるのなら広く薄く利益を頂き、でなければ相応の利益を頂き繋げていく。そういうものだと思います。そこには良いも悪いもありません。
追い求めているものが素晴らしいのなら、その人が手掛ける作品を迎え入れ愛でる理由になると。だから私は高くても買うし、安いなら布教してみんなに広めます。

私のお店の話ですが、そこで出た利益は商売を切り盛りし、従業員を養い、そしてまた新しいアイテムを作ったり世の中の魅力的なモノを発掘したりと、利益を頂いた人に「ここで買ってよかった」と思ってもらえるようなモノやサービスに注がれています。
そういった物事の相互間に生まれる感動値が、いわゆる可視化できない部分の満足度になってくると信じている訳ですね。それが商品価値であり値段を介した保証でもあり。

言葉を理解していなければコミュニケーションを取るのが難しいように、高い服に宿るものや安い服が内包する色々を汲み取って調理し提供する事も必要な事であると。私はそう信じています。だからこんな回りくどいお店をやっています。

どこまでもアナログでめんどくさい事ですが、一人でも多くの服好きが増えん事を祈りつつ、今日も業務に明け暮れましょう。あ、二号店は予約制だけれどいつでも誰でもウェルカムなので気軽に連絡くださいね。
こんな話でよければ、たくさんお話しましょう。

ちなみに本業は糀屋です。

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