見出し画像

あそびとは

昨日、この仕事を始めた初期の頃に議論したことのある話題を唐突に振られた。

「あそび」についてだ。

かつて、あそびについて調べたことがある。そしたら、「遊びと人間 講談社学術文庫」というロジェ・カイヨワによる書籍に行き着いた。

その後、ケイティ・サレンによる大著「ルールズ・オブ・プレイ」でも遊びの3類型が示されたり、あそびと触れる機会は多々あった。(他にも楽しさを調べたこともある。楽しいと遊びは別物だが混同されがちだ。)

カイヨワについては、かつて会社のコラムに書いた(和田が)。

▼遊びには分類がある??

▼ゲーム研修ってプレイフルラーニングなんですか?

--

さて、今の視点で見てみると、カイヨワもケイティサレンも外国人であることは見落としてはならないと思う。彼らは日本語のあそびではなく、それと類似した外国語について論じている。英語であればおそらく「play」を論じているのだろう。

このところ、日本語と外国語の意味のずれが何かおかしな誤解を生んでいると感じる。

このため、日本語のあそびを改めて見てみた。

転じた意味もありながら、playとは重ならなさそうなものもいくらかある。

あそびは、「本来すべきこと」との対の概念にみえる。例えば、「人は本来働くものである」という前提があり、それに対して、「働いていない」状態を「あそび」という。あそびの状態のときの行動、これもまた「あそび」である。

余白は何かと何かの間にできる。主機能と主機能の間の余白のようなものも「あそび」という。あそびをつくっておくなどは、余白の意味であり、余暇などもあそびの周辺語彙だろう。

--

あそびの語源を調べると、実に諸説が多いのだが、個人的に刮目したのは、「あそびはあそみから転じたもの」という説だ。

あそみとは朝臣とかき、あそんとも読む。あそみとは朝夜見(あさよみ)の転であり、朝も夜も目に入ることから来ている。つまりいつも(天皇の)近くにいるという意味だ。

朝臣は貴族だから、彼らだけに許された特権があり、蹴鞠などがそれにあたる。

彼らは本来の仕事(もあるのだろうが)ではなく、暇な時間を蹴鞠している。それが目に付くと、朝臣≒高等遊民であり、「朝臣(あそん)でいる」という風に羨望で見られたという話なのだ。貴族出ない人は働いているのに、貴族は遊んでいるという見え方が揶揄されたのだと思う。

今でも権力者の名前をもじって動詞化する例や、上級国民という表現も見られる気がするのでありえない話ではないように思う。

--

かなり脱線したが、日本語のあそびは本来やるべきこと以外のものという意味合いが強い。

だから、「仕事で遊びとは何事だ(仕事が主)」とか、「勉強もしないで遊んでばかりいて(勉強が主)」とか、「私、遊ばれてしまったの(本妻や本彼女が主)」のように正しいものの対立項と捉えられがちだ。だから、「仕事の中の遊び」や「学習の中の遊び」のように包含する捉え方に抵抗を感じる人が多かったり、「副」はやるべきことではないと思う人が多いのではないかと思う。

あそびを仕事に取り入れようとか、ゲーミフィケーションとかそういった本が売れるのは、つまり現実がそうではないことの裏返しだからなのである。

※ソースは自分で探してください(笑)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?