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内村鑑三を読む:第1回「信者の娯楽」

イントロダクション

〈はじめに〉
 これは投稿者が筑摩書房発行「近代日本思想体系」の第6巻「内村鑑三集」を読む中で、個人的に感銘を受けた内村鑑三の著作を簡単な感想を添えつつ紹介してみたい、という動機による投稿です。一応シリーズ化を予定していまして、第1回目は「信者の娯楽」と題された著作を取り上げます。
〈内村鑑三について〉
 内村鑑三(1861〜1930)は明治時代を代表する基督者・伝道者・聖書学者・文学者として有名です(詳細はリンク先のwikiページを参照ください)。彼の生きた時代は近代化の黎明期であって、今とはまるで違った時代背景であった事は言うまでもありませんが、それにも関わらず彼の基督信仰と日本社会への鋭い語りかけは、その約100年後の現代を生きる僕自身の胸に不思議なほどに突き刺さり、その物事の本質を見抜く力に只々驚嘆するばかりでした。
 なので僕としては、この痛快さを是非シェアしてみたいというのが目的のひとつだったりします。特に誰宛ということはありません。誰にも読んでもらえなくても別段構わなくて、便利な時代になったから僕もちょっと何か残してみようかと思ったのです。
 さて話を戻して、ここで注意したいのは、内村鑑三の著作は俗に言う自己啓発本の類いとは全く性質が異なるということです。僕が内村鑑三を思想家と紹介しない理由はここにあります。つまり彼の土台にあるのは上述の通り基督信仰、すなわち聖書の言葉に依るものであって、彼のあらゆる著作を通して聖書がすべての人に対して如何に普遍的真理を語っているものであるか、ということに終着/執着している点を知ることが、彼の著作を読む上で特に重要であると感じています。
〈このシリーズについて〉
 内村鑑三の著作の中でとりわけ有名なものとしては「余は如何にしてキリスト信徒となりし乎」や「後世への最大遺物」などがありますが、このシリーズで取り上げる順序は全く僕の気分次第です。この2つの本もとっても素晴らしいです、特に前者は最高に面白く尚且つ感動的です。でも紹介するのは多分もっと後になると思われます。
 そして僕の感想は本文(=信者の娯楽)の更に下にひっそりと載せておきますが、何せ読書感想文なるものは小学生時代からの大大大の苦手で、大学へ入るまでまともに読書すらした事がなかった、というような者の謙遜抜きの拙文ですので、僕としては本文さえ読んでいただければ幸いに感じます。
 (本投稿者による旧式漢字の平易化、括弧内における補足及び一部現代語訳あり。聖書箇所の引用文には新日本聖書刊行会・聖書 新改訳2017を使用)

本文「信者の娯楽」 

 去年(=1913年)11月14日東京府下大森加納家に於いて開かれしモアブ婦人会の席上に於いて述べし所。

 人には誰しも娯楽がなくてはならない。信者(=クリスチャン)は何を娯楽となすべきであるか。

 不信者には多くの娯楽がある。観劇の娯楽がある、寄席の娯楽がある、飲酒の娯楽がある、狩猟の娯楽がある、そのほか数尽せぬほどの娯楽がある。それなのに信者は不信者と全く趣味を異にするが故に、不信者の娯楽は信者の娯楽とはならないのである。害のない娯楽としては読書の娯楽があり、美術の娯楽があり、自然を楽しむ娯楽があるが、しかしこれらは誰にでも楽しむことの出来る娯楽ではない。時と金と学問とを要する娯楽は、これは信者のいかなる人にも適する娯楽ではない。

 それならば信者は何を娯楽としてその生涯を楽しむべきであろうか。
 信者は神の子である。故に彼は万事において神に倣うべきものである。「ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。」とパウロは言った(エペソ5:1)。ゆえに娯楽のことにおいても信者は神に倣うべきである。神は何を娯楽(たのしみ)とされるか、その事が解って信者の楽しむべき娯楽の何たるかが分かるのである。

 そして神の愉楽とは他でもない、創造である。物を造ることである。創造主なる彼は創造をもって最上の愉楽となされる。世間一般に言う娯楽なるものと、神の愉楽とは正反対である。娯楽といえば消費することである。自分が一生を費やして造った物を消費すること、或いは他人が苦労して造った物を消費すること、その事が世の人の所謂娯楽である。狩猟の娯楽、飲酒の娯楽、観劇の娯楽、みな殺伐にあらざれば消費の快楽である。他者に造らせて、自分は単に壊し又は費やすのである。これ破壊者の父なる悪魔の楽しむ娯楽である。

 神は創造主である。造る者である。彼の最大の快楽は造る事である、産む事である。彼は宇宙とその中にある万物を造りて喜び且つ楽しまれた。彼は人を造りて喜ばれた。そして今なお義者と信者とを造りて楽しみつつある。創世記第1章を見るに、(引用文多量のため中略)幾度となく繰り返して「神はそれを良しと見られた」とあるのは「満足に感じられた」とか、「喜び楽しまれた」とか云う意味に解すべき言葉である。即ち神は創造が一段落告げる度毎に満足を感じ歓声を揚げられたとのことである。そして最後に創造の大業を終えられて「非常に良かった。」と仰りて大満足を表し、歓喜の大声を揚げられたとのことである。

 そして神はただ物を造るを以て足れりとなさらない。神は彼の姿に象(かたど)って人を造りて最上の満足を感じられたのである。故に初めて人が創造されて神は彼らを祝福されたとある。「祝福する」は祝福される者の幸福であって、祝福する者の歓喜(よろこび)である。神がその御姿のように人を創造されし時の歓喜満足は他の物を造られし時のそれに比ぶべくもなかった。

 しかしながら、神にはなお肉なる人を造る以上の快楽があった。彼はそのひとり子キリストを世に造られて霊なる人の創造を始められた。信者は神の最上最美の工(みわざ=御業)である。今や宇宙と万物との創造は終わって、キリストに似たる霊なる人の創造が行われつつある。生ける神は永遠に造り給う神である。彼が造らない時などない、創造は彼の生命である。彼は造って歓び、その生命を顕されつつあるのである。

 「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」(第二コリント5:17)また、「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」(エペソ2:10)とある。神が今信者にあってその創造を続けつつあり給うことは驚くべき事実である。そして「小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。」(ルカ12:32)とあって、神は天国建設とその市民の養成とをもって歓喜となされつつあるのである。

 神の愉楽は造ることである。故に神の子たる信者の愉楽もまた造ることでなくてはならない。造ることである、造ることである。信者の事業は造ることであって、その娯楽もまた造ることである。カーライルは度々叫んで言った、「産ずべし、産ずべし、たとえ小さなる物なりと誰もこれを産ずべし」と。生産は創造である。人は造って神に似るのである。そして神の霊を心に受けて造らずにはいられない、また造ることが最上最大の快楽となるのである。

 経済学者は言う、生産は労苦なりと。けれども基督信者は言う、労働は快楽なりと。世に造るに優(まさ)るの快楽はない。米を作るの快楽、麦を作るの快楽、野菜を作るの快楽、真正の農夫は知っている、農業は大なる快楽であることを。機械を作るの快楽、衣服を作るの快楽、家屋を作るの快楽、真正の工人は知っている、工事は大なる快楽であることを。文を作るの快楽、書を著わすの快楽、雑誌を編集するの快楽、真正の文士は知っている、執筆は大なる快楽であることを。教授の快楽、説教の快楽、伝道の快楽、天下何物か、人物養成、霊魂救済に優るの快楽があるだろうか。造ることは総て快楽である、無上の快楽である、この快楽を知らない者は人生を知らない。造って、造って、造り続けて人生の窮(きわま)りなき快楽を覚えることが出来るのである。

 神の快楽たる造ることの快楽、これが信者の快楽である。物を作ること、思想を産むこと、霊魂を救うこと、これが信者の娯楽である。この娯楽がありて他の娯楽は要らない。観劇の娯楽も要らない、旅行の娯楽も要らない、世人の言う娯楽にして物を作るに優るの娯楽はない。「人生は娯楽なり」との言葉は労働製作の快楽を知って初めて味わうことの出来る言葉である。

 然らば造らん哉、働かん哉、産ぜん哉である。或いは台所において、或いは工場において、或いは机に対して働かん哉。或いは口を以てして作らん哉である。「ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。」創造主の子どもは物を造るを以て愉楽(たのしみ)とする。物の大小、尊卑を問わない、造るのが名誉であってまた快楽である。造らん哉、然り、造らん哉!!!

(『聖書之研究』1914年1月)

感想

 約1世紀の時代差があるので、物事の捉え方に多少の齟齬は有る。さすがにそれは言い過ぎではと感じる箇所もないではない。また消費(或いは鑑賞)するまでが造ることであるという意見もあるかと思う。けれども娯楽という比較的軽量な話題から、神に倣って生きる道の一つ「造る楽しさ」を聖書から見出すに至るこの見事さ!って僕はとても感動したのですけれども(笑)。
 というのは、僕は芸術音楽の作曲を音大で学んで、今も勉強と創作に励んでいる身という事もあって「創造する」ということについて考える機会が割合に多い。で、非ヨーロッパ圏の人間が西洋音楽の文脈上で創作をするときには決まって「なぜ自分は西洋音楽をするのか」という問いに直面して、自分なりの答えを持っていないと大抵の場合自分の音楽家としての存在意義に悩まざるを得なくなる(何も作曲に限らず演奏やその他の様々の音楽活動にも問われることだが)。これに某大作曲家Nは「今や西洋音楽はヨーロッパのみならず世界の宝である」と言い、或いは同じく某大作曲家Tは「西洋音楽が自分の音楽にとって普遍的で便利だから」と答える。それは実際全くその通りで、もっともな事であるのは疑いないけれど、どこか決定打に欠けているような気もしてしまう。このことは今回の「信者の娯楽」の本旨よりももう一歩先の話なので、ここから先はまた別の機会にと考えているが、自分が何かを造ることの理由について肯定的な答えをひとつ得られたような気がして、個人的にはとても嬉しかった。特にクリスチャンとして芸術創作に臨むにあたっては、その目的内容も含め(これもまた別の機会に)大変励まされ勇気をもらった。
・・・ただ観劇の娯楽(=諸々の舞台芸術)も素敵ですよと、最後にフォローしておきたい(雑)

おわりに

 という事で、直接娯楽について学んだというよりかは、自分にとって直近の問題に迫る展開に気を惹かれたので、これを第1回に取り上げることにしました。
 なるべく短い文章のものを取り上げるつもりでしたが、初回からボリューム多めになってしまいました。この反省はいつ来るかわからない次回に活かしたいと思います。別に全文でなくとも抜粋で良い訳で(現代語訳も思いの外大変だったし)、知識を初めいろんな不足を自分に感じつつも楽しく、適当な頻度で続けられたらなと思います。それではまたいつか。

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