見出し画像

内村鑑三を読む:第3回「地位の満足」

イントロダクション

〈はじめに〉
 これは投稿者が内村鑑三の著作を読む中で、個人的に感銘を受けたものを簡単な感想を添えつつ紹介してみたい、という動機による投稿です。
 今回は「地位の満足」を取り上げてみます。人は誰でも将来の夢を持ったり、いつか自分の天職を得たいと願い求めますが、必ずしも理想通りにいかない現実に思い悩むことがあるかも知れません。そんな人(僕?)にむけて内村鑑三は聖書を通して励ましのメッセージを語ってくれています。
〈内村鑑三について〉
 内村鑑三は明治時代を代表する基督者・伝道者・聖書学者・文学者として有名です。彼の生きた時代は近代化の黎明期であって、今とはまるで違った時代背景であった事は言うまでもありませんが、それにも関わらず彼の基督信仰と日本社会への鋭い語りかけは、その約100年後の現代を生きる僕自身の胸に不思議なほどに突き刺さり、その物事の本質を見抜く力に只々驚嘆するばかりでした。
 なので僕としては、この痛快さを是非シェアしてみたいというのが目的のひとつだったりします。特に誰宛ということはありません。誰にも読んでもらえなくても別段構わなくて、便利な時代になったから僕もちょっと何か残してみようかと思ったのです。
 さて話を戻して、ここで注意したいのは、内村鑑三の著作は俗に言う自己啓発本の類いとは全く性質が異なるということです。僕が内村鑑三を思想家と紹介しない理由はここにあります。つまり彼の土台にあるのは上述の通り基督信仰、すなわち聖書の言葉に依るものであって、彼のあらゆる著作を通して聖書がすべての人に対して如何に普遍的真理を語っているものであるか、ということに終着/執着している点を知ることが、彼の著作を読む上で特に重要であると感じています。
〈このシリーズについて〉
 内村鑑三の著作の中でとりわけ有名なものとしては「余は如何にしてキリスト信徒となりし乎」や「後世への最大遺物」などがありますが、このシリーズで取り上げる順序は全く僕の気分次第です。この2つの本もとっても素晴らしいです、特に前者は最高に面白く尚且つ感動的です。でも紹介するのは多分もっと後になると思われます。
 そして僕の感想は本文の更に下にひっそりと載せておきますが、何せ読書感想文なるものは小学生時代から大大大の苦手で、大学へ入るまでまともに読書すらした事がなかった、というような者の謙遜抜きの拙文ですので、僕としては本文さえ読んでいただければ幸いに感じます。
(本投稿者による旧式漢字の平易化、括弧内における補足及び一部現代語訳あり。聖書箇所の引用文には新日本聖書刊行会・聖書 新改訳2017を使用)

本文「地位の満足」

◯人には各自に天職がある。之を知りて之に就くは当人に取り、社会全体に取り、最も幸福なる事である。人生の成功とは実は他の事ではない、自分の天職を知って、之を実行する事である。もし教育が完全に功を奏するならば、人はことごとく己が天職を知って、失敗の生涯とは一つもないであろう。当人は勿論、父兄、教師そのほか青年指導の任に当たる者は、子弟の天職発見の為にその全注意を払わねばならぬ。聖書の言葉をもって言うならば「私たちは一人ひとり、キリストの賜物の量りにしたがって恵みを与えられました。」とのことである(エペソ4:7)。ここに恵みと云うはギフト即ち天賦の才能である。神は一人として特殊の才能を具えざる者をこの世に遣わし給わない。

◯然るに事実如何と云うに、人の天職を発見するのは最も困難である。よしまた之を発見したりとするも、之を実行するはこれまた困難である。そして大抵の場合においては天職は発見せられず、また実行せられずして、人は己が欲せずまた己に適せざる事を為しつつその一生を終えるのである。人生に悲惨事多しといえども才能の浪費または濫用の如きはない。多分多くのラフハエルまたは応挙は一枚の画を書かずしてその一生を終えるのであろう。多くの百合花がその香を認められずして、岩間に枯れ果てるが如くに、多くの天才は己を発揮することが出来ずに、空しく消失するのであろう。

◯然らば我等失望すべきかと云うに決してそうではない。第一に記憶すべきは神の聖業(みわざ)の決して無効に終わらざる事である。今世ばかりが人世でない。神がその聖業をことごとく実現し給う時が必ず来ると聖書は教える。「神の子どもたちが現れるのを」とはこの事である(ローマ8:19)。冷酷なる世は我等の天才を蔽(おお)って却って喜ぶといえども、神は斯かる事を決して許し給わない。神は各人をその定め給いし職に就かしめずば止み給わない。天職即ち神の国の美(うる)わしさと慕わしさの一面はたしかにここに在る。我等は我等の天職の実現を望んでヘブライ書の記者の言葉を借りて言う「私たちは、いつまでも続く都(社会)をこの地上に持っているのではなく、むしろ来るべき都を求めているのです。」と (ヘブル13:14)。この不完全極まる社会または国家に在りて我が天賦の才能の完全なる発揚を望めばこそ不平もあれ懊悩(おうのう)もあるのである。この所は罪の世、神の聖旨(みこころ)の滅多に行われざる所、偽君子、偽善者、偽天才が跋扈横行する所であると知れば、我等所を得ざればとて、また自己の発展を遂げ得ざればとて深く悲しまない。我等の国は他に在る。之を望んで喜ぶのである。

◯この事を心に留めてコリント人への手紙第一 7章20-24節におけるパウロの言葉を読んでその意味が良く分かる。

20-21節:それぞれ自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。あなたが奴隷の状態で召されたのなら、そのことを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、その機会を用いたらよいでしょう。
24節:兄弟たち、それぞれ召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。

即ち各人その職に止(とどま)るべし、強いて之を転ぜんとするなかれ、ただ「神とともに居るべし」との事である。これは如何にも宿命説のように聞こえるが決してそうではない。この世の何たるかを知りて之に処するの道を示したる言葉である。この世は理想の行われ難き所、不公平はその特徴である。故に敢えて運命の発展を求めない。もし他人に譲るべきあれば喜んで之を譲る。ただ神とともに在る。そして彼が我を顕(あら)わし給う時を待つ。彼は時には我をこの世において顕わし給う。その場合には「寧ろ之を受くべし」である。然れども彼は彼の聖国(みくに)において必ず我を顕わし給う。我れその事を思って敢えてこの世において顕われんことを欲しない。我はこの世においては我が置かれし地位に満足する。この世においては神を知り彼とともに居るだけで充分である。その他の事は来世まで待つ、キリストが顕われて我を我が定められし地位に置き給う時まで待つ。

附言 この態度に心を置いて我等は現世においても最大の成功を遂げ得るのである。エピクテートスは奴隷であったが、彼は性来(うまれつき)の哲学者でありしが故に、奴隷でありながら大真理を世界に伝えた。彼に比べてセネカはネロー大帝の教師でありながら、不平不満の間にその一生を送り、終いに自殺してその身を終わらざるを得なかった。自己を完成する上において、平安の心ほど大切なるものはない。性来の芸術家は俗務に従事しながら芸術家たる事が出来る。所謂レーマンと称して宗教学を修めざる者の内に、最も尊敬すべき信仰家あるもまた、同一の理によるのである。この世はひとたび之を棄てて然る後に之を我有(がう)となす事が出来る

◯ただ避けるべきは懶惰(らんだ)である。我が天職を得ざればとて無為に年月を送ってはならない。何事をも為さざるは悪事を為すなりと西洋の諺は云う。「働きたくない者は食べるな」とはパウロの主義であった(テサロニケ第二3:10)。

(『聖書之研究』1924年2月)

感想

 自分の天職とは何か、これほど気になる話はない。副業で月30万稼ぐ方法教えます!みたいな知能低めの広告が本当だったとしても、自分の天職を知れるのなら副業月30万なんて然程の興味もない。
 いつしかのテレビ番組で某有名講師が仕事論として「やりたいこと/やりたくないこと」「出来ること/出来ないこと」の4つの割合を考えて職業を考えると良い、みたいな事を言っていたのを思い出した。ある程度自分を客観視してから可能性を探る、もっともな方法かも知れないが、しかしそれが天職とは限らない。そもそも天職とは何か。仕事にするなら自分のやりたいこと、好きなことをライフワークにしたいとは誰もが抱く理想だと思うが、果たしてそれが天職かどうかは実際のところ本人にも確証はないかも知れない。
 この天職について、内村鑑三と同時代を生きたドイツの社会学者マックス・ヴェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という著書の中で、マルティン・ルターの「天職(Beruf)」という観念(=世俗の職業は神の召命であり、我々が現世において果たすべく神から与えられた使命なのだという考え)についての問題を語っているようだ。が、僕まだ怖くてこの「プロ倫」持ってはいるが読めていない😅
まあ、ここで内村は天職そのものについて論じているのではないので次に進むことにしよう…うん。汗

 さて自らの才能を見出せず、或いは見つけても発揮することが出来ずにその生涯を終えることについて、内村は失望するなかれと説く。それは基督者の未来にある希望を見据えてのことであり、この世がどういう場所であるかを知れば、そこまで深く悲しむ必要はないとのこと。僕が特に感動し励まされた部分としては、

この世は理想の行われ難き所、不公平はその特徴である。故に敢えて運命の発展を求めない。もし他人に譲るべきあれば喜んで之を譲る。ただ神とともに在る。(中略) 我はこの世においては我が置かれし地位に満足する。この世においては神を知り彼とともに居るだけで充分である

 そして附言では、これらの事を心にとめるなら却って成功を遂げうるのだ、と大変勇気づけられた。

自己を完成する上において、平安の心ほど大切なるものはない。性来の芸術家は俗務に従事しながら芸術家たる事が出来る

 ここに逆説的真理の一片を学ぶことができた。実は聖書(殊に新約)においてもこの逆説的真理というのはその醍醐味のひとつであって、詳細は省くがこれがためにクリスチャンは将来の希望を失うことなく、信仰的楽観主義ともいえる立場にあって、時代・世俗の変化に翻弄されない、或いは自らの境遇に一喜一憂せず生きることが出来るのだと、青二才ながらそう実感する。これはペシミストの姿勢と様相は似るが雲泥の差だと思う、希望のないところに心の平安はないのだから。

おわりに

 今回は本文の現代語訳は極限まで控えて、旧式漢字と引用聖句の部分だけ読みやすくしたけれど、どうなんだろう…まあ慣れれば原文でも普通に読めるんだけど、noteで読む時は実際の古い本の質感を感じられないので、別のしんどさも有るような気もする。良きバランスを目指してもう少し続けてみます。

 イメージ画像は、本文の「ラフハエル」にちなんで盛期ルネサンスを代表するイタリアの画家ラファエロ・サンティ(1483-1520)の絵を選んでみた。覚えているだろうか、かつてのサイゼリヤでよく見たこの二人の天使。注文してから料理が来るまでの間、天井を見上げてこのちびっ子天使たちの戯れを見るほかにはすることがなかった。僕が小学校低学年くらいだった頃は、あの理不尽難度の間違い探しのイラストはまだ無かったと思う。
 今回この画像を調べて驚いたのは、この絵は《システィーナの聖母》という祭壇画のほんの一部分だったということ(画像参照↓)。ちびっ子天使も退屈そうに料理を待っている絵なのかと思いきや、全然違うじゃない、そもそもメインじゃないのかい。しかし下の一部分の絵を切り抜いても魅力的だと思えるラファエロの凄さ&ユーモア、自分の作曲においても見習いたい。それではまた。

画像1


この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?