見出し画像

内村鑑三を読む:第4回「日本国の大困難」

 今回は内村鑑三の著作の中でも僕が特に感銘を受けた「日本国の大困難」を取り上げてみます。これを執筆した当時(明治36年)の日本という国を、気持ちの良いほどバッサリ斬ってくれる文章がまさに痛快でありまして、彼の幅広い知識と優れた直感力には感心するばかりです。
 これを読まれた方がどう思うかは分かりません、少し行き過ぎだと感じる所もあるかも知れません。しかし、何れにしても日本人にとって本質的な問題のひとつである事は間違いありません。現代の日本の状況をみても、あらゆる点において大いに考えさせられる指摘だと個人的には思います。
 前置きはこの辺にしておいて、さっそく本文に行ってみたいと思います。というのも今回は約7,500字(!)の長文ですので、忍耐もって一緒に読んでくだされば幸いです。なお僕の感想はありません、ご勘弁願います。

本文「日本国の大困難」

(本投稿者による旧式漢字の平易化、括弧内における補足及び一部現代語訳あり。本文中の太字は原著の傍点に則す。)

1.序論

 日本国に一つの大困難があります。それは富の不足の困難ではありません。また学問の不足の困難でもありません、法律の不整頓の困難でもありません、農商工の不振の困難でもありません。それはモット深い根本的の困難であります。その困難があるからこそ日本の社会は今日のような稀代なる状態を呈(あら)わして居るのであります。
 ところが日本人の殆ど総体は困難をその根本に於いて探らずして、資本の欠乏を歎(たん)じ、道徳の衰退を悲しみ、政治家教育家の腐敗堕落を憤って居ります。その事それ自体が慨嘆すべきことであります。

 日本国の大困難、その最大困難とは何でありますか。私は明白に申します。それは日本人が基督教を採用せずして基督教的文明を採用したことであります。これが我が国今日の全ての困難の根本であります。この大なるアノマリー即ち違式がある故に我が国今日の言うべからざる種々雑多の困難が出て来るのであります。

 基督教的文明とは読んで字の如くキリスト教に由って起こった文明であります、即ち基督教なくして起こらなかった文明であります。故に基督教を学ぶにあらざれば解することの出来ない文明であります。ところが日本人は基督教的文明を採用してその根本たり、その起因たり、その精神たり、生命たる基督教そのものを採用しないのであります。
 これはあたかも人より物を貰ってその人を知らず、その人に感謝しないのと同じ事でありまして、このような不道理なる且つ不人情なる地位に自己(おのれ)を置いた日本人が窮まりなき困難に際会しつつあるのは最も当然の事であると思います。

2.諸例

 先づその二三の例を挙げて見ましょう。日本人は日新今日の学術なるものは、これは基督教の賜物でない所ではない、常に基督教の反対を受けて今日に至ったものであるから、之を採用し之を応用するに何にも基督教に頼るの必要はないと言って居ります。しかし是れ西洋歴史を少しも知らない者の言うことであります。
 私は今ここに大科学者なる者の多数が熱心な基督信者であったことに就いては語りません。近世科学の草昧(そうまい)時代に在って万難を排して宇宙の現象の観察に従事したニュートン、ダルトン、ハーシエル、フハラデーの輩が謙遜なるキリストの僕であった事に就いては語りません。
 しかしながらよく考えて御覧なさい、何故に回々教(=イスラム)全盛の時代に於いてトルコやエジプトやモロッコやスペインに於いて培養された科学がその産出の地に於いては発育を全うすることが出来ずして、欧州の基督教的社会に移されてより繁殖するに至ったのでありますか。何故にインド人の鋭き脳髄を以てしてインド半島に科学が起こりませんでしたか。
 科学なるものは他のものと同じように大科学者の顕出を以てのみ起こものではありません、之を促し、之を迎え、之を奨励する社会があって初めて起こるものであります。
 殊に科学思想は政治思想と同じく思想の抑圧の有る所に起こるものではありません。偶像崇拝の国に科学の起こらないのは人の心が受造物に圧せられ、それがために自然を凌駕し、之を究めんとの心が起こらないからであります
 一神教の信仰と科学の勃興との間には深い深い関係が存して居るのであります。この事を知らないで、智識に富みさえすれば何れの国民でも科学を以て世界に鳴ることが出来ると信ずるのは実に浅い考えであります。

 近世教育なるものが概ね基督教の賜物であることは少しく西洋の教育歴史を読んだ人の否むことの出来ない事実であります。誰もペスタロツヂの伝を読んだ人で彼が非常に熱心なる基督教の信者であって、彼の新教育なるものは皆な深き彼の宗教的観念の中に案出されたものであることを拒む者はない筈であります。
 フレーベルも同じ事であります、ヘルバルトも同じ事であります。彼等フレーベルやヘルバルトより基督教の信仰を取って御覧なさい、彼等の始めた教育の精神は取り除かれるのであります。
 ところが今の日本人はペスタロツヂ、フレーベル、ヘルバルトの教育法を採用してその根本たり、源因たり、生命たる基督教は嫌って是を採用しないのであります。日本国の教育が実に異常なものであって、体あるも霊魂なく、四肢あるも脳髄がないようなものであるのは全く是れが為めであります。

3.憲法

 また我ら日本人が世界に向けて誇るその新憲法なるものは何処から来たものでありますか。伊藤博文侯はその憲法註解に於いてこれは我国固有の制度を新たに制定したるものであると言って居りまするが、しかしそうならば何故に明治の今日まで代議政体が日本国に布かれませんでしたか。またもしそうならば何故に基督教国なるババリヤ(=現在のドイツ・バイエルン州)やオーストリアの憲法に深く学ぶ所の必要がありましたか。
 代議政体なるものは元からこの日本国に在ったもので決して西洋から借りたものではないなど言うのは余りに小児らしく聞こえまして、日本憲法を一読した西洋の政治学者に斯かる事を聞かしたならば、彼等はただ笑うのみであります。

 今日文明国で唱える所の自由であるとか民権であるとか云うものは決して基督教なくして起こったものではありません。自由は世の創始(はじ)めより有ったもので、人類のある所には必ず自由ありなど云う人は未だ自由歴史を究めたことのない人であります。
 ローマやギリシヤに古人が唱えて以て自由と称せしものはありましたが、しかしミルトンや、コロムウエルや、ワシントンや、リンコルンが唱えた自由なるものはありませんでした。是れは実に新自由であります。是れはプラトーもソクラテスもカトーもセネカもシセロも知らなかった自由であります。
 是れは即ち初めてナザレ人イエス・キリストに由って始めてこの世に於いて唱えられた自由でありまして、彼と彼の弟子に由らざれば決してこの世に顕れなかった自由であります。
 人権に於るも同じであります。人に固有の権利ありとは、人は何人もその欲するが儘を行っても可いと云う事ではありません。また人は何人もその所有を己が欲する儘に使用することが出来ると云う事でもありません。
 権利なるものは言うまでもなく責任に附着したる能力(ちから)でありまして、責任がなくなると同時に之に附着したる権利は消滅するものであります。そうして人の責任なるものは神と万有と人とに対する彼の心霊上の関係より来るものであります。
 神を認めず、不滅の霊魂の実在を認めずして、責任の観念はその土台から崩され、その結果として人はただ智能を具えたる利欲の動物と成ってしまいます。
 責任の観念は実に宗教的観念であります。是れは科学的に説明することの出来るものではありません、是れはまた社会を組織するための必要上より人間が定めたものでもありません。責任の観念を固く維持せんと欲せば必ず強き宗教の力に頼らなければなりません

 然るに日本の今日はどうでありますか。日本人は西洋人に倣ってその憲法を制定し、西洋人に倣ってその法律を編制し、西洋人に倣ってその教育制度を定めました。
 ところが彼等は西洋文明の精神たり、根底たり、泉源たる基督教を嫌い、我には我が国固有の宗教あり、何んぞ之を外国より借りるの要あらんやなどと申して居ります。或いは学は西洋に則り徳は東洋に取るなどという馬鹿を吐いて居ります。
 しかし馬鹿は馬鹿としても国家は何時までも馬鹿で押し通すことの出来るものではありません、自然には自然の法則なるものがあります。日本人は如何に大なる国民であるにもせよ、自然の法則に勝つことは出来ません。
 基督教は自己を採用されないとて日本人を罰しは致しませんが、しかし自然の法則は何の遠慮する所なく今や厳しく日本人の愚と無情と傲慢とを罰しつつあります。之を日本今日の状態に於いて御覧なさい。

4.科学

 西洋科学は40年間この国に於いて攻究されました。そうしてその医術の如きは欧米のそれに比べて遜色なきものであると云われます。
 しかし退いて考えて御覧なさい、40年間の攻究の結果として日本よりどんな科学上の大発見が出ましたか、また哲学上どんな新学説が出ましたか、発明と云えば皆な小なる工業上または薬物学上の発見くらいに止まり、なんの一つも世界の科学に貢献して恥ずかしくないようなものは我が国の科学社会よりは出て来ないではありませんか。
 それは抑々何のためでありましょうか、我が国に天性の科学者がないからでありましょうか、または研究の資力が無いからでありましょうか、私はそうは思いません。日本国の科学者や哲学者に真理に対する愛心が足らないからであります。利益のためにする科学に大進歩はありません、道楽のためにする科学は科学の名をさえ値しないものであります。
 真理は総ての利慾心を離れて真理そのものを愛するにあらざれば深く探ることの出来るものではありません。発明と云えば直に之に金銭上の利益と社会上の名誉が附随して居るもののように思う科学者からは決して大なる発見は出て来ません。之をコペルニカスに聞いて御覧なさい、之をニュートンに糺(ただ)して御覧なさい。彼等は皆な一様に答えて申します、「科学は決して商売ではない。是れはまた道楽でもない。是れは実に真面目なる仕事であって、之に従事せんと欲するものは苛厳なる主人に仕えるの心を以て為さなければならない」と。
 ところが日本人の科学なる者は如何なる者でありますか、幾多の大学生が工学を修めんとするのは何の目的でありまするか、日本の工学技師ほど卑しい者はないと彼等をよく知る者の放つ歎声ではありませんか。日本の医学なる者は如何なる者でありますか、是れは重もに病人を医して金を作るの術ではありませんか。日本の動物学や植物学は如何なる者でありますか、是れは学校の教員となる下ごしらえでなければ自然界の奇物を探る道楽の一種ではありませんか。日本の哲学なる者は如何なる者でありますか、是れは無理やりに忠君愛国主義を哲学的に弁護せんとするための方便でなければ、また欧米大家の学説を玩味せんとする是れまた道楽学問の一種ではありませんか。
 日本に科学はあります、即ち科学の利用はあります、その玩用はあります。しかしながら未発の心理を発見して人種の智識の領土を広めんとする広遠なる希望の上に立つ科学は日本には殆ど無いと言っても良い程であります。日本の科学は実に甚だツマラないものであります。

5.教育

 その次は日本の教育であります。之は実に世界の見物(みもの)であります、これ程奇妙なるものは世界にありません。その教育制度たるや外形上実に立派に見えます、是れは欧州諸国に於いてすら多く見ることの出来ない制度であるなど誇る我が国の教育者もあります。
 しかし如何でありますか、ヘルバルトが神と書きし所を之は我が国体に適わずとて之を削り、その代わりに天皇陛下と加えしは如何にも誠忠らしくは見えまするが、しかし之は彼れ大教育家ヘルバルトに対して不忠実極まる所行でありまして、苟(いやしく)も教育家の聖職に在る所の者の決して敢て為すべき事ではありません。
 しかし堂々たる日本の文部省では斯かる非学者的の事をなすのを少しも咎めず、神の名を削りて天皇陛下の名を加えしものを真正のヘルバルト主義の教育学であるとて之を国民の上に強いたのであります。

 故に自然は欺騙(ぎへん)の罪を赦しません。
 すでに虚偽に始まった日本の教育の虚偽の結果を御覧なさい、教員は誰も真面目に児童を教育せんとは為さず、教育を以て一種の職業と見做し、教育家が地位を探るに当って先づ第一に探るものは俸給の高であります。毎年3月下旬より4月上旬にかけて、新学年の始まる頃に全国の師範学校または中学校の校長達が教員雇入れのために上京する頃は日本の教育界は宛(さなが)ら一種の市場の状態を呈し、何県は何百円で格が安いとか、何府は何百で割が高いとか、実に教育とは最も縁の遠い事柄を是等教育商の口から聞くのではありませんか。
 それのみではありません、かの書肆(しょし=書店)の教科書運動を御覧なさい、世に謂う「腐敗屋」なる者は何んでありまするか。是れは学校長または教授、教諭、さては視学官などを、或いは金銭を以て、或いは酒色(しゅしょく)を以て、買収せん為に我が国の書肆が使役する運動員の名称ではありませんか。
 「腐敗屋」!!何と恐しい名ではありませんか。彼は「恭倹己を持し、博愛衆に及ぼし・・・徳器を成就し、進んで公益を広め」等の皇帝陛下の勅語を国民に教えるために著されたる倫理教科書を売り広めんために我が国教育者の腑腸を腐らしむるために特別に運動する者であります。そうして日本の教育家は斯かる腐腸漢を断然排斥するかというに決してそうではありません。悦んで彼等と結託し、彼等の供する利を食らい、以て彼等書肆の利を計るではありませんか。
 この世界に児童の教育が始まって以来百何十人と云う教育家が収賄の嫌疑のために一時に縛られて牢獄に投げ入れられたと云う例(ためし)は何時の世、何れの国にありますか。ここに於いてか日本にはフレーベル、ヘルバルトの教育は勿論、教育という教育は一つもない事が証明されました。
 明治政府の施した教育は皆なことごとく虚偽の教育であります。是れは西洋人が熱禱熟思の結果として得た所の教育を盗み取って、之に勝手の添削を加えて施した偽りの教育であります。
 そうしてその結果は、即ちこの虚偽の結果が、今日の所謂教科書事件であります。神の無い、キリストのない、基督教的教育(日本今日の教育はそれであります)の終える所は教育家の入牢であります。知事、博士、学士の捕縛であります。虚偽は全ての罪悪の源であります。ペスタロツジを欺き、ヘルバルトを欺いた日本の教育はここに前代未聞の醜態を呈するに至りました。

6.政治

 もしこの世に基督教が無くとも自由は行われると云う人があるならばその人は日本今日の政治界を見るべきであります。
 日本国には憲法が布かれてあります、その憲法には日本人の権利自由が保証されてあります。しかしながら日本の政治界には自由は殆ど行われて居ません、日本人はその代議士を選ぶに方て自由を以てせずして余儀なき情実を以てします、脅迫に非ざれば情実であります、誘惑であります。日本今日の政治なるものは是等3個の区域を脱しません。
 自由、自由意志、正義の外に何にも屈しない意志、神の外には何者をも恐れない勇気、利慾を卑しみ、名誉を糞土視し、人望を意に介しない独立心、手に一票を握るを以て我は天下の権者なりと信ずる自尊の心、そんな貴い者は日本今日の政治界には殆ど痕跡だもないと云わなければなりません。
 この国に於いては政治は教育の如く総て利益より算出(わりだ)されます。蒔かぬ種は生えぬと唱えられまして、何人も資本を下ろしてそれ相応の利益を収めんとして居ます。代議士に成るのも社会の株主に成るのも同じように思われて居ます。世に情けない、詰まらないものがあるとて日本今日の政治の如きものはありません。是れは総て十露盤(そろばん)を以て前もって計算する事の出来る事でありまして、自由意志を有したる人間の事業であるとは少しも思われません。

 公法学者として世界に有名なるサー・ヘンリー・サムナー・メイン氏は言いました、「今日吾人が称して平民的政治となす者はその源因を英国に於いて発せし者なり」と。そうして何時何人に依って重もに之が英国に於いて始められしかと云えば勿論17世紀の初め頃、コロムウエル、ミルトン、ハムプデン、ハリーベーン、ピム等に由て始められしものであります。そうして是等は何う云う人であったかと尋ねて見ますと、何よりも先に先づ第一に熱心なる基督信者であったのであります。
 基督教なしにかの大革命は始まりませんでした。そうしてかの17世紀の革命なしには米国の独立戦争も1848年の欧州諸邦の大革命もなかったに相違いありません。18世紀の終わりのフランス革命は17世紀の英国の革命の真似事でありました。ナポレオンはコロムウエルよりその宗教を取り除いた者であります
 故に今日の所謂代議政体または共和政体(二者はその原理に於いて同じ者であります。共和政治といえば何でも君主の首を斬ることであると思うのは歴史学の無学より起こる誤謬(ごびゅう)であります)は皆なその源を17世紀の英国に発して居るものであります。そうして17世紀の英国の革命なるものが宗教革命でありしことは少しでも世界歴史を読んだ者の疑うことの出来ない事実であります。

 基督教なしの代議政体、自由制度、是れはアノマリーであります。異常であります、違式であります、霊魂のない骸(むくろ)であります、機関を具えない汽船であります。世に持て扱いにくいものとてこんなものはありません、ところが日本の代議政体は是れであります、実に困ったものであります。

7.結論

 その他日本今日の商業について、工業について語る間暇(ひま)はありません。ただ一事は火を見るよりも明らかであります。基督教なしの基督教的文明は是れは之れ終いには日本国を滅ぼすものであります
 この点に於いては支那やトルコやモロッコは日本よりも遙かに幸福であります。彼等の文明は彼等の宗教に適って居ます。故に彼等は自己の反対より滅びる恐れはありません。
 しかし日本国は彼等と異なり、その宗教は東洋的でその文明は西洋的であるのであります。是れは非常の困難でありまして、もし今に於いて直にこの不合則を直すにあらざれば日本国は終に自己の反対より亡びて了います。

 故に我らの今日為すべきことは何でありましょうか。我等は西洋文明を棄てましょうか、否、そんな事は決して出来ません。
 故に今より直に進んで西洋文明の真髄なる基督教そのものを採用するのみであります。是れ日本国の取るべき最も明白なる方針であります。
 この事は実に難事であります、しかし日本国の青年が釈然としてここに覚える所があり、憤然として起こって、純正の基督教を我が国に伝えるに至りますれば日本国の将来は少しも心配するに足りません。
 日本国の愛国者よ、今は基督のため、日本国のため、全身を基督教の伝播に注ぐべき時であります。

(『聖書之研究』1903年3月)

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?