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内村鑑三を読む:第2回「近代人」

イントロダクション

〈はじめに〉
 これは投稿者が筑摩書房発行「近代日本思想体系」の第6巻「内村鑑三集」を読む中で、個人的に感銘を受けた内村鑑三の著作を簡単な感想を添えつつ紹介してみたい、という動機による投稿です。第2回目は、前回の「信者の娯楽」で出てきた神の創造というテーマに少しだけ関連した著作「近代人」を取り上げてみようと思います。前回の反省を活かして、本文はとても短く読みやすい、しかし内容の切れ味は抜群の大変おすすめのお話です。
〈内村鑑三について〉
 内村鑑三(1861〜1930)は明治時代を代表する基督者・伝道者・聖書学者・文学者として有名です。彼の生きた時代は近代化の黎明期であって、今とはまるで違った時代背景であった事は言うまでもありませんが、それにも関わらず彼の基督信仰と日本社会への鋭い語りかけは、その約100年後の現代を生きる僕自身の胸に不思議なほどに突き刺さり、その物事の本質を見抜く力に只々驚嘆するばかりでした。
 なので僕としては、この痛快さを是非シェアしてみたいというのが目的のひとつだったりします。特に誰宛ということはありません。誰にも読んでもらえなくても別段構わなくて、便利な時代になったから僕もちょっと何か残してみようかと思ったのです。
 さて話を戻して、ここで注意したいのは、内村鑑三の著作は俗に言う自己啓発本の類いとは全く性質が異なるということです。僕が内村鑑三を思想家と紹介しない理由はここにあります。つまり彼の土台にあるのは上述の通り基督信仰、すなわち聖書の言葉に依るものであって、彼のあらゆる著作を通して聖書がすべての人に対して如何に普遍的真理を語っているものであるか、ということに終着/執着している点を知ることが、彼の著作を読む上で特に重要であると感じています。
〈このシリーズについて〉
 内村鑑三の著作の中でとりわけ有名なものとしては「余は如何にしてキリスト信徒となりし乎」や「後世への最大遺物」などがありますが、このシリーズで取り上げる順序は全く僕の気分次第です。この2つの本もとっても素晴らしいです、特に前者は最高に面白く尚且つ感動的です。でも紹介するのは多分もっと後になると思われます。
 そして僕の感想は本文(=近代人)の更に下にひっそりと載せておきますが、何せ読書感想文なるものは小学生時代から大大大の苦手で、大学へ入るまでまともに読書すらした事がなかった、というような者の謙遜抜きの拙文ですので、僕としては本文さえ読んでいただければ幸いに感じます。
(本投稿者による旧式漢字の平易化、括弧内における補足及び一部現代語訳あり。聖書箇所の引用文には新日本聖書刊行会・聖書 新改訳2017を使用)

本文「近代人」

 彼に多少の知識はある(主に狭き専門的知識である)。多少の理想はある。彼は芸術を愛し、現世を尊ぶ。彼は所謂「尊むべき紳士」である。しかし彼の中心は自己である。近代人は自己中心の人である。自己の発達、自己の修養、自己の実現と、自己、自己、自己、何事も自己である。故に近代人は実は初代人である、原始の人である、猿猴(えんこう)が初めて人と成りし者である、自我が発達して今日に至った者である。故に基督者ではない、自我を十字架に釘(つ)けて己れに死んだ者ではない。キリストの立場より見て所謂「近代人」は純粋の野蛮人である、ただ自己発達の方面が違ったまでである。近代人とはシルクハットを戴き、フロックコートを着(つ)け、哲学と芸術と社会進歩とを説く原始的野蛮人と見て多く間違いはないのである。

 彼は自己の欲望を去て神の聖業(みわざ)に参与しようとしない、却って神を自己の事業に賛成させようとする。近代人はキリストの下僕(しもべ)ではない、その庇保者(パトロン)である。彼は彼の哲学と芸術と社会政策とによってキリストを擁立(もりたて)ようとする。即ち彼はキリストに救われようとせずキリストを救おうとする。彼は想う、キリストは彼の弁護がなくては現代に於けるその神聖を維持できないと。所謂「近代人」は自己をキリスト以上に置いて彼を批評する、「我もしキリストの下僕(しもべ)となるならば我は研究の自由を失い、我が哲学は滅び我が芸術は死す」と曰(のたま)う。近代人は堕落したアダムと同じく、自身が神とならないと済まないのである。まことに彼はアダムの裔(すえ)である、善悪を知る樹の実を食べて目開かれて神の如く成りし者である(創世記2章を見よ)。

 自らキリストの下僕たる事を辞めてしかも基督信者の名を負いたいとし、我もまた基督信者なりと言う。キリストの十字架は避けたいとして、しかも基督信者の名誉と利益とは受けようとする。余輩は述べる、近代人は自己中心の野蛮人なりと。彼は自己を中心としてキリストに従わずして基督信者たるの利益に与ろうとする者である。

(『聖書之研究』1914年1月)

感想

〈創世記2章より抜粋〉 
 8〜9節:神である主は東の方のエデンに園を設け、そこにご自分が形造った人を置かれた。神である主は、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。
 15〜17節:神である主は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

 前提として、自らを基督者と称した近代的知見を持つ人について語っている、割合に範囲の限定された問題提起の著と言えるかもしれない。とはいえ、これを他人事と思って読んではいけないと思う、ましてや「これはあの人のことだ」とかいう他人を天秤にかけるような読み方をするなど高慢極まりない。この著作の話の対象者はこれを読む自分自身である、つまり僕自身に対して問われている事であると、そう意識しながら読み進めた。するとどうだろう、やはり自省せざるを得ないあれこれがいくつも浮かんでくるではないか、先ほど限定的範囲の話と言ったが、いやこれはクリスチャン全員に宛てたものだと、やはりそう思ってしまうのである。

 彼の別の著「再臨再唱の必要」の中では近代人の主旨と同じような文脈で「十字架の苦杯を飲まずして再臨の饗宴に与ろうとする」者が何人も居ると言っている。ものすっっごく簡略して説明するなら、「十字架の苦杯」とはクリスチャンであるがゆえに周囲との価値観の違いが招く諸々の不遇、また本文中の「基督信者の名誉と利益」とはキリストの福音を信じたことによる魂の救い、永遠のいのちの恩恵を指すと考えておおよそ間違いないと思わる。
 現代の日本でクリスチャンが迫害を受けることはかなり稀になっているが、内村鑑三が生きた時代の日本は天皇中心の世界観である。当時の多くの教会もまた政府・世俗と主義方針を共にし、天皇を讃え戦争を唱え、賛美歌集には「君が代」も入っていたような状況だった。内村鑑三が無教会主義にならざるを得なかったのも察するに難くない。

 さてここで、本文中のにある「善悪を知る樹」と「神の如く成りし者」の意味について、ある聖書註解を参考に確認しておきたい。

 キリスト教の伝統では、この木はりんごと言われています。しかし、聖書はそれがなんの木であるか説明していません。「善悪の知識」とは知識の総体のことであり、体験的知識のことです。つまり、この木から食べると「知識の総体」を得るのですが、それは、人が自分にとって何が良いか決定すること、つまり、神のように振る舞うことを意味しています。
(中川健一著「クレイ聖書解説コレクション 創世記」より抜粋)

 今これらをごく簡単に学んで、今回の「近代人」を通して内村鑑三が問いかけているのは、君は「自己をキリスト以上に置いて」しかも「自身が神とならないと済まない」自己中心の人間=原始的野蛮人になってはいないだろうか?ということであると思う。延いてはそれが「神抜きの/神を否定するための科学・哲学・芸術」という現代の世の中の中心的活動に繋がっているのではないかと、僕はそう感じないわけにはいかない(これは自分の芸術観と併せて別の機会に書いてみたいと思う、いつになることやら…)。

 内村鑑三を読むと大変学び・励まされるが、それと同時に反省することがとても多い。今回は特にそうで、考えれば考えるだけ自分がいかに自己中心・利己的な生き方しか出来ない人間であるかを痛感する。しかしこれの行き過ぎには気をつけたい、単なる自己嫌悪/自己卑下で終わるのではなく、その都度祈り悔い改めて前を向き、気持ち新たに前進することを常とする、神さまはこれを望んでおられる。いつまでも古傷を見てめそめそと嘆いているのはキリストの福音を信じた者のすることではないと、いつか教会で学んだことを思い出した。

おわりに

 取り留めのない感想しか書けず本当に恥ずかしい。その割に若干長くなってしまって、いやこれでも半分くらい削ったつもりで、この「近代人」に関連した芸術についての私見を述べたかったのだけれど、あまりに飛躍しては本旨から外れるばかりか、内村鑑三の著作の存在を霞めては申し訳ないと思ったので敢えなく断念…。
 どうでもいい話。シルクハットはわかるけどフロックコートなるものを知らなかったのでググってみたらこの(本投稿ページ最上部の)画像が出てきた。別に彼らが内村鑑三の謂う「近代人」だって事ではないのは勿論、あくまでイメージをするほんの手助けのつもりで掲載してみた。「原始的野蛮人」の画像も欲しかったかな。ではまた次回。

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