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短編小説 抱きしめた私

私はただ逃げたいと思った。

女であることから、結婚から、家族から、友人から、何もかも、疲れたと思って逃げ出して、そして逃げた先に拾ってくれた人。

それがまさか昔愛した人だとは想像しなったけど、きっと逃げたい気持ちも、助けてほしい気持ちも両方が板挟みになった。

彼の家に転がり込んでも彼は特に何も聞いてこない。

いたいだけいていいよ。ちょっとしたルールあるけれど、ここは居心地が良かった。

彼は大体夜遅くに帰ってくる。店長になったから、休みとか入り時間は自由なんだけど、帰る時間はなかなか、ね。

寂しそうな顔をしながら話してくれた。

彼がいない時間は本を読ませてもらう。

彼は小説を読むタイプではなかったけど、この数年で本当に変わったんだなと本棚を見ればわかる。

知ってる作家さんも多くて、その中には試しに何度か貸した小説があったり、別れた後返してもらうことなかった本も、棚にはあった。


恋愛寄りで、新しい本であろうところにミステリーが積んでて最近はジャンルを変えてるんだと昨日カレーを煮込みながら話してくれてた。


読んでいると文字に線が引いてる。

好きな言葉に線を引く、私は本に文字を書くことがないから、マメだなと感心。

本を読み疲れてきたら彼の家の前に流れる大きな川のほとりでいろいろ考える。

どうしたいんだろう。周りはそんなに私のことをコントロールしようとして、何が楽しいんだろう。

ほっといてくれたらいいのに。

そんな気持ちをぶつぶつ言っていると、後ろから名前を呼ばれた。

早上がりだった。

一言それだけ伝えて笑顔でコチラを見てくる。

また好きになる事はないんだろうな。
今はそう思いながらも、尊敬と感謝だけをもって彼と部屋に帰る。

そろそろ1週間くらいの時に、

仕事辞める日を決めた。

と言われた。転職活動はずっとしてたらしく、最近やっと、決まったらしい。

彼は嬉しそうだった。そうだった。昔、夢を持ってたけど叶わなくて、紹介で今の所で働いてる彼にとって、初めて勝ち取った内定なのだと気づいた。

おめでとう。お祝い、したい。何か食べたい?と聞くと、

彼は少し考えていた。

俺が食べたいもの、せーので言ってみない?

あーこの顔、意地悪なこの顔がかっこいいと思ってた。

せーの。


モンブラン。

2人で声を合わせて放った後、声を揃えて笑った。

彼の誕生日はいつもステーキとモンブランだった事、忘れてはなかった。



スマホもなく、連絡もできない分そろそろやばいかなと思い、彼に電話を借りて家族に通話した。

母も父も怒っていた。

言い争いの途中で、彼がスマホを横から取って、通話を止めた。

そのまま何も言わずにパソコンの画面を見つめる。

どうして何も聞かないの?と聞くと、振り向き、そして目を見られた。


昔、そっとしといてって言ってくれたのに俺はじっとできなくて、焦らしてしまった。そして君は俺がそっとしといてって言ったらじっと待っててくれた。

別れの時、待てない自分を君は勝手な人だと言ってた事、今も覚えてるし、後悔の一つだから、今回は待つ。
話したくなる時が来なかったら逃げてもいいと思う。
いつか向き合うその日まで、今は休んでもいい。


あの時は、ごめん。


彼は深々と頭を下げて、そしてまた画面を見つめる。彼は体を震わせ、鼻を啜って、画面を見つめてる。変わらない。黙って泣く人だったな。

私は、今回は彼と逆。じっとできなくて、彼を後ろから抱きしめてしまった。

待てなかった彼が、ちゃんと待って、私のペースを守ってくれてる事、この前までペースを守ってくれなかった周りにはなかったその配慮が、私はたまらなく嬉しかった。

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