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自己肯定感という名の信仰【#72何があってもマイペンライ!】

自己肯定感の低い友人がいる。ことあるごとに「俺なんて...」「何もできないし」などと口にする。

私から見るに、彼はもっと自分に自信をもっていい。彼は仕事ができる(ように私からは見える)し、人を気遣える優しい人間だ。全く悲観することはない。

私は彼に言ったことがある。

「この前、仕事で表彰されたんでしょ。すごいじゃん」「自分よりも周りのことを考えられていて尊敬する」

しかし、私の言葉は彼に響いていないようだった。私の言い方がよくなかったのかもしれない。けれど、ああ、これはダメだと思った。周りが何かを言って解決する問題ではないのだなと。

彼は、自己肯定感を低くすると決めている。そのように私の目には映った。「自分はこういうことができないからダメな人間だ」という根拠はない。意識的か無意識的か、彼は自らを「自己肯定感の低い人間」と定義してしまっている。

自己肯定感の低さに根拠があるのなら、その根拠を崩せば、自己肯定感は高まる。だから私は、彼の自己肯定感を高めるための材料をもってきたつもりだった。だが、効き目がなかった。根拠に基づいて自己肯定感が低いわけではないので、自己肯定感を高めるための根拠をもってきても、無意味だったのだ。

日本人は無宗教と言われるが、私たちはさまざまな信仰をもっているように思う。彼は「自己肯定感低い教」。一方、私は「自己肯定感高い教」を信仰している。仕事でミスをしても、知人に悪口を言われても、SNSで炎上しても、私の自己肯定感は揺るがない。自分が好きだ。自分は生きる価値があると確信している。

根拠はない。「なぜあなたは価値のあるの人間なのですか?」と聞かれても、答えられない。ただただ決めている。私は生きるべき価値のある人間だと定義しているというだけだ。これは完全に信仰だと思う。

日本では、信仰の自由が保障されている。「自己肯定感高い教」と「自己肯定感低い教」のどちらを信仰してもいいし、そこに優劣はない。

ただ、自己肯定感の正体が信仰であるということは認識しておいて損はないと思う。幼い頃から育ってきた環境によって、私たちは無意識のうちにさまざまな信仰を手にしている。

大人になるということは、自分の信仰を自覚することだと、私は思う。自分にはどんな信念があるのか。どんな価値観や考え方をもっているのか。他人と比較しながら、自己理解を深めていくことが大切だ。
そしてもう一つ、重要な事実がある。信仰は変えられるということ。今、この瞬間に「自己肯定感低い教」から「自己肯定感高い教」に乗り換えることもできる。誰の許可もいらないし、なんの根拠もいらない。

自己肯定感とは、信仰だ。


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