ライトノベルと文芸の違い

年末に何をという話なんですが、ずっと考えていたことを少し書いてみようと思います。
色々語りつくされてる話だとは思いますが、私なりの考えということで。

一般文芸とライトノベルはどう違うか、ここの境界線はあいまいだと個人的には思っています。
ただ、曖昧だけど同じではない。とも。究極を言えば「レーベルの違い」で終わる話でもあるとは思うのですが、では私が「一般文芸を書いている」という意識はどこから来るのか、どこが違うのか、という話になってくるなと思うのです。

とある方の文章の中で
「ラノベはハッピーエンド、一般文芸はそうじゃないものが多い」というものがありました。私にはこれが疑問で、色々考えてみたんですよね。

そもそも私の読書は偏っていて、80%くらいが「ミステリ」なんです。
だから、ミステリにとっての「ハッピーエンドとそうじゃないものってなんだろ?」と考えると、ちょっと難しいなと思うんですよね。
じゃあ、他のジャンルなら?と考えると、他のジャンルをあまり読んでないことに気づいて、今まさに「ミステリじゃない一般文芸」を読んでるところです。
でも、今までに読んでいたものでも、お仕事ものとかだと結構「ハッピーエンド」的なものはあったと思っていて、それがライトかそうじゃないかを分ける?と考えると難しいなと。そもそもハッピーエンドって何だろうな?とも思ったり。思い返してみると「ハッピーエンドかどうか」というのを意識したこともあまりないような気がします。ミステリの「どんでん返し」系はラストが重要だったりしますけど、それ以外で「ラストがこうだったからこう」みたいな考えはあまりしてこなかったなと。

それで、今「ミステリ以外のヒューマンドラマ」を読んでいて感じるのは、「人間の嫌なところをちゃんと描く」のが一般文芸なのかなと思いました。
ラノベにももちろん悪役がいる、嫌なやつがいるけれど、リアルさよりわかりやすさを重視して「記号的」になっているというか。
人間の複雑さを描写する必要がないのがラノベなのではないかなと、それらの本を読んで感じています。

そうすると結末についても「わかりやすいハッピーエンド、バッドエンド」に収まらない、「そんな単純じゃないよね」っていうのが一般文芸にはおのずと出てきてしまう、それが「わかりやすいハッピーエンド」から見ると「ハッピーエンドじゃない!」という印象になるのかなと思ったりしました。

そして自分が書いてるものに意識を戻すと、私の人間の描き方はまだまだライトだなと。ラノベほど「わかりやすくエンタメに振ったキャラ」でもなければ、「文芸だから人間性を深掘りしてます」と言えるほど深くもない。
つまり「文芸と言いつつ薄っぺらい人間性」なんだろうなと。

ミステリにももちろん人間は描かれているんだけど、どうしても事件や犯人、展開に視線が行ってしまうので、やはりジャンルが違うという気持ちがあるんです。
人間が書けてないという話ではなくて、主題がどちらかという話というか。

例えば以前読んだ三浦しをんさんの「光」も、殺人は起こるんですよね。でもこれはミステリじゃない。これがミステリなら大きく構成が変わるなと思って読んでました。これは「謎」や「殺人」を追う物語じゃない、「人間の心情」を描いたものだ、と。

それが、今まで私が書いてきたものはひどく曖昧で、「人間」をしっかり描けていない。

実は、人間を厭らしく書かれている物語は結構苦手だったんです。特に性描写。
だから、一般文芸のヒューマンドラマや恋愛ものには手を出してこなかった。でも今読むとすごく面白くて、興味深い。
自分の中のなにかが変わったのだと思います。でも、今までがそうだったから、私の描く人間は厭らしさが出せない。だからこそ、すごく薄っぺらい。その人間の薄さが、物語も薄く感じさせるのだと思います。

唯一桐野夏生さんが大好きで、彼女の本をたくさん読んだことが「大丈夫」になるきっかけだったかもしれません。
しかし桐野夏生さんが描く「人間」はどうやったら書けるのか、一生わかる気がしません……でも、ヒントはあるような気がする。

そしてこれらの小説は「純文学」ではなく「エンタメ小説」であること。
「人間を深く描くけど、設定や展開もしっかりエンタメとして楽しませる」。それが一般文芸のエンタメ小説、ヒューマンドラマ、なのだろうなと。

そう考えるとそことミステリをかけ合わせて来たのが湊かなえさんの「イヤミス」だったりするのかもしれないな、と思ったりしました。一時期の辻村深月さんもそう言う印象です。また読もう。

そんな感じで、来年の目標は「人間を深く描くこと」にしました。
もう一つは「ミステリを書くこと」。

頑張ります。

来年もよろしくお願いします!



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