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情熱大陸

爆走妄想族の私は、「情熱大陸」で取材を受けながら会場に向かう。私の勝負曲は「情熱大陸」だ。試合や昇段審査に向かう際は、必ずイヤホンで聞いている。

日曜日の横浜駅を、防具を担いで歩いている。大きな荷物を背負ってメイクなしで休日の繁華街を歩くのは勇気がいる、と足早に人混みを抜けていく。

濃炭冷茶、普通の主婦。上手くない。強くない。だが剣道界の底辺に棲む。

剣道を始めたのは、子どもの影響だ。子どもたち二人は既に成人し、剣道を引退したが、彼女は稽古に通い続けている。

https://youtu.be/53B3ZrhfnOA

試合の準備は前日にする。剣道着と防具と竹刀を確認する。トイレ掃除と洗濯を前夜にしておくのがルーティーン。

「試合では自分より格上だったり、歳下の若い選手と当たることがほとんどで、負け続けだけれど、いつか1本決めたいんです。応援してくれている皆の、え!?決めたぞ!っていう顔を見たいんです。」と濃炭冷茶は素顔を隠した目深の帽子の下で笑っていた。

勝てなくてもいい。負けが続いたっていい。だが、絶対に負けてはいけないときが来たときに、そこで勝てばいい、と15年慕う指導者は濃炭冷茶に言う。

近所の小学校の体育館を借りて稽古する剣友会に通って15年。剣道は年齢や性別や経験に関わらず一緒に稽古出来ることが魅力だ。
へなちょこおばさん剣士だと自らを名乗る濃炭冷茶だが、ここでは男性の指導者に混じって小学生の指導に関わっている。

「私は先生じゃなくて、せんせーなんです。至らないから」

稽古を覗いてみた。掛かり稽古は、2人1組になって打ち込む側が受ける側の元立ちに絶え間なく打ちかかっていく稽古だ。15秒から30秒といった時間の中で、激しく打ち込むので体力と気力が必要だ。
相手を5人代えたところで、男性の指導者が「皆、大丈夫かー?」と子どもたちに声を掛けた。子どもたちは息を整えながら「はいっ!」と応える。そして指導者は「濃炭せんせーは大丈夫?」と聞く。「はい!あと、3本なら頑張れます!」と小手を付けた右手を挙げる。「え?5本って言った?」と聞かれて「ひゃ~!3本です!5本は無理!」と応えると子どもたちはすかさず「3本でお願いしますっ!」と右手を挙げる。アットホームな剣友会だということが伝わってくる。

濃炭冷茶は、子どもたちの様子を見て、あとどれだけいけるのか、休憩はどれくらい必要なのかを、指導者に示す。他の7名の指導者もそれを知っていて、「濃炭せんせー、大丈夫?」と声を掛ける。おばちゃんせんせーだからこその役割なのだそうだ。

新型ウィルス感染防止対策として、3月から稽古は中止となった。9月になっても濃炭冷茶が通う剣友会の稽古はまだ再開されていない。

「稽古が出来なくなって、剣道の子どもたちにも会えなくなって、寂しいんですけれど、新しい出会いもありました。」

それは、北海道の剣士が始めた、YouTube配信の素振り稽古会。画面の向こうで号令を掛ける「号令せんせー」と、視聴者の剣士が、素振りを行う。稽古のように黙想から始まり黙想で終わる。海外からの参加者もいる。チャットでは剣道にまつわること、今夜の夕食などが交わされるが、準備体操や素振りをしている間は、チャットはピタリと止まる。集中力の高い剣士の集まりだ。

「稽古が始まったときに、またまた下手になっていると思うので、せめて素振りは続けようと思ったんです。画面越しですけれど、アドバイスを頂いたり、励まされたり、考えたり、ふざけあったり、一緒に竹刀を振る皆さんとの絆が出来たので、楽しくて。素振りといっても、とにかく自分が納得する形になるのは難しくて、しょっちゅう悩んでます。」

濃炭冷茶の部屋には、木刀と竹刀と素振りのための短くて重いフリセンが立て掛けてある。ベッドの横のラックには手入れがなされた面が置いてある。

惜敗の試合の後に濃炭冷茶は言っていた。「底辺にいるからこそ、見える景色があるんです。悔しいのも、情けないのも、全部ひっくるめて結局楽しんでるんです。」

緊急事態宣言により稽古が出来ない時間も、彼女は楽しんでいるように見えた。

素振り稽古会「剣ヱン会」https://www.youtube.com/channel/UCkejXmdxY00ddvLSafjhi_Q
トンボは、前にしか飛ばず退かないことから、不退転の精神を表すとされ「勝ち虫」とも呼ばれている。縁起物として、剣道具にも用いられている。

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