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私の棺には木刀を

5月に義母が急逝した。
嫁いだばかりの頃、旅館を切り盛りする義母はとても厳しくて、世間に甘えていた若い私たち夫婦は勘当されたこともあったが、そんなことはうんと昔の話だ。
「今年のお正月は三が日には行けないけれど、松の内には行くから」と夫が義母に電話をして、私が電話を代わると義母はとても饒舌で、旅館を廃業してからの暮らしはとてものんびりしていてちょっと退屈で、働かないということの優雅さと窮屈さを感じていると、私とは思いがけず長話になった。

義母は春先に体調を崩して入院をして、検査をしたら癌が見つかって、余命宣告を受けて退院して、義妹たちと今まで通りにリビングで過ごして、兄弟姉妹や孫たちが毎日誰かしらが必ずやってきて、「また来るからね」って挨拶をして、皆に囲まれて照れながら涙ぐみながら、あっという間に逝ってしまった。

「おとうさんを残して逝きたくない。皆のこと、頼むわね」
掌をオイルマッサージしていたときに、義母が義父の背中をちらりと見て私の耳元で呟いたのは、まだ昨日のことのようだ。
花が好きだった義母の祭壇は季節の色彩豊かな花が飾られ、棺には習っていたフラワーアレンジメントの作品の写真も添えられた。戒名には「蓮」の文字がつけられた。

四十九日まで、私は習い事の剣道を休むことにした。習い事とはいっても、連絡係や会計や広報や書類作成など、ほとんどの会務をひとりで担っているので、稽古よりも幅広く様々な対応が忙しい。新しく入会される方への説明や保護者会への対応をしていたら、面をつけられないまま稽古が終わってしまい、もやもやした気持ちが残ることもある。

身内の葬儀のためにしばらく稽古を休みたいこと、大会のエントリーや、体育館をお借りしている団体の登録料の支払いや、昇段された先生へのお祝いの準備や、体験稽古にいらっしゃる方への対応などを先生方や保護者会にLINEで依頼をする。
働き者の義母が、「たまには休みなさい、人に頼ること、任せることは大事よ」と、何でも引き受けてしまう私に変化のきっかけをくれたのだと思う。

小学生と中学生の息子たちと一緒に剣道を始めたので、入会当初は保護者代表として連絡網の一番上に私の名前が配置されていた。そのうち、いつも稽古に来ているのだからと、先生からの連絡や依頼を全体に回したり、皆に出場の意向を確認して大会のエントリー表への入力をするようになった。20人以上子どもたちの在籍があった頃は、保護者会が会務の一部を担っていたのだが、今は稽古に来る子どもたちは5、6人に減少し、お任せしていた作業は保護者会から私に戻ってきた。

他の道場の60代の女性の先生とは、年に数回お顔を会わせることがある。
「体験稽古にいらした親子に案内をして入会して頂いて、所作や足さばきや素振りを指導して、防具をつけるようになって、手ぬぐいの巻き方や紐の結び方を教えてあげて、トイレに行きたいって言うと連れていって、皆の列の中に混じれるようになると、男性の先生方がご指導にあたるの。その繰り返しと道場の事務作業を長年していたら、自分の稽古は十分に出来なくて、私は自分の昇段審査を諦めるようになったの。それが私の役目だって思うようにしていたけれど、自分よりもあとから稽古を始めた年上の方が昇段されるとやっぱり後悔してしまうから、あなたは私と同じ道を歩いたらダメよ」とおっしゃっていたことがある。

子どもたちの剣道を支えることで、発見がある。保護者の集団の中に入ると、情報は増える。気付きや学びは多いが、それらから問題や悩みが発生して対応して処理をしていると、自分の稽古を両立することは難しくなる。
準備体操や足さばきの稽古のときに会務をこなしていると、「事務なのかもしれないけれど、稽古をサボっているように見えるから良くない」と、小学生だった次男に叱られたことがある。厳しい意見だが、ごもっともだ。

義母の葬儀の1週間後、県外で宿泊を伴う女性剣士の講習会があった。喪中だからキャンセルをしようと思ったのだが、予定していたのだから行った方がいいと夫が言い、留守は任せろと長男が言い、サボるなと次男が言い、遺影の義母はどの角度から見ても笑っている。

私の剣道には覚悟がない。息子たちの稽古の送迎のついでに私も始めて、子どもたちを応援することが何より楽しくて、強くなりたいとか、勝ちたいという気持ちが持てない。本当はそう願いたいのかもしれないが、貧相で怠惰な私のメンタルがそうはさせない。歳を重ねても、重ねる度に竹刀を綺麗に振りたい、というのが私のかねてからの目標だ。だから、講習会に参加して六段や七段の女性の先生方のストイックなマインドの巧みな技の剣道の前では、とにかく真っ直ぐに振ることに集中することしかできない。基本稽古のときに講師の先生が私の側にいらして「迷わずに真っ直ぐに正しく振ることを大事にして、とにかく続けてください」とおっしゃった。私の剣道はそれが全てだ。

四十九日が済んで、私はこの先も剣道を続けるために、担っている会務の一部を私から外して欲しいと先生方に頭を下げた。楽しく続けるために、少し負担を減らして欲しい。
私が剣道を続けることに苦しんでいるとは思わなかったと、不意の申し出を労って頂いたが、会務の見直しは、まだもう少し先になるようだ。なにかを手離すときは慌てなくていい、真っ直ぐに前を見据えよう、そう思うようにした。

旅館の家に生まれて、独立して旅館の女将になって82歳まで義母は働きづくめだった。廃業するときに、「どうしよう、無職になったら毎日、何をしよう」と心配していた。「私だったら張り切ってダラダラと過ごしちゃいます」と言うと、「そのダラダラがよくわからないのよ」と女将の心配に、ダランダランの私の背筋が伸びた。
義母の晩年は、庭の草花の手入れをしたり、フラワーアレンジメントを習ったり、花のモチーフの編み物をしたり、鮮やかで穏やかで優しい時間に包まれていたのだと思う。

私は息子たちにお願いをした。
覚悟のない体力づくりの私の剣道なのだけれど、まずは還暦まで続けるのが希望で目標。
そのもう少し先まで続けられても、続けられなくても、子育てをしながらあなたたちと剣道の稽古に通ったことは、私の人生のわりと真ん中にある出来事で、あなたたちが引退した後も稽古に通い続けたことは、私の人生の中の七不思議のひとつ。だからさ、私が亡くなったら棺には木刀を入れてね。


家紋と四十九日の説法を手ぬぐいにして