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プチトマトと餃子とアップルパイ

プチトマト

父の入院中に実家の冷蔵庫を整理しに行った。おそらく父が家に戻ることはないので、私は父が手入れをしていた芝生の真ん中に穴を掘って、賞味期限の切れた刺身と豆腐と、サンドイッチとヨーグルトを埋めた。

1ヶ月後に父が亡くなって、慌ただしく実家に赴いた。和室の戸棚からアルバムを出して、葬儀に使う写真を選び、一息着いて障子をあけると、庭の真ん中に何本もの枝葉が伸びていて、たくさんの赤い実が光っていた。サンドイッチの具のプチトマトが、大地に飛び出したのだ。

縁側に出て父のサンダルをつっかけて、屈んで赤い実を捥いで口の中に放り込んでそっと噛むと、柔らかな酸味が広がる。庭の真ん中で泣き笑いしたのは、生温くて甘いプチトマトのせいだ。

#プチトマトの花言葉
#完成美
#感謝

餃子の羽根

うちの餃子はキャベツではなく白菜を使う。母が作る餃子を受け継いだからだ。
女の子は勉強は出来なくてもいいから、料理を覚えなさいと言われて育った。そういう時代だったのだ。とは言え、テストの点数が悪いと、ちゃんと授業中に理解をしてこないとダメだと叱られたけれども。

母が夕食の支度を始めると、私はキッチンに小さな丸椅子を置いて座る。「じゃがいも、にんじん、玉ねぎ!」と言われるとそれを野菜室から出して母に渡す。「小麦粉!」と指示がくると、丸椅子に立って戸棚から袋を取り出す。「卵!」と母がニヤリと私を見たときは、ドキドキしながら、ホイッと卵を母の手元に投げあげる。母がキャッチすると私は「おめでとうございますー!」と染之助染太郎師匠のキメ台詞でポーズをつける。卵を落としたことはないが、なんともお行儀の悪い母娘だ。

愉快なお手伝いなのだが、私がキッチンに入れないことが稀にある。精神的に脆い母は、自分の思い悩む世界に入り込むと、誰も受け入れなくなる。エプロンを外して横になればいいのに、無理をしてキッチンに立ち続ける。苦しそうな顔をして、頑なに背を向けて、挽き肉をこねる。なぜか決まっていつもそのタイミングが挽き肉なのだ。
休んでくれたらいいのに、倒れるまで休まないのが母の弱点だ。お手伝いできなかった日の餃子は熱くて重い塊となって、私の体内にジリジリと落ちていく。

私は主婦になって、無理をしてまでキッチンには立たない。私は逃げることが怖くない。今日は無理だと両手を挙げて降参をする。私にはキッチンに弟子がいないので、「やめ、やめーい」とキッチンの丸椅子に座って、不貞腐れてコーヒーを飲みながら、レトルトカレーに救いを求める。母の背中のおかげで、おおらかに図々しく育ってきたのだ。

だから、私は餃子を焼くときには、パリっとした羽根にこだわっている。餃子は自由に大空を羽ばたかせたい。それはまるで、あのときの餃子の供養みたいに。

#韮の花言葉
#多幸
#星への願い

アップルパイ

両親の事情で、しばらく中学生の弟とふたりで暮らしていたことがある。ふたりきり、というわけでもなく、父は深夜に帰宅して、翌朝私が学校に行った後に出掛けていく。2、3日するとまた深夜に帰宅する。母は行方がわかっている期間限定の消息不明だ。

私はカレーやシチューやチャーハンやグラタンハンバーグなどは難なく作れたのだが、毎晩になるとそれはしんどくて、当時は近所にコンビニがなかったから、近所のお肉屋さんの揚げ物や魚屋さんのネギトロには、とてもお世話になった。

当時は、大人がいないぞ、自由を手に入れたぞ
とウェイウェイしていたが、今思えば本当は心細くてへこたれていたのだと思う。夜になるとキッチンへ行って、パジャマの袖をまくりあげて、私は小麦粉とバターをこねた。コンロでは、リンゴを甘く煮詰めている。パジャマのポケットに入れたウォークマンで、ユーミンやサザンや稲垣潤一を聴きながら、甘く切なくバターの層を重ねていく。1ヶ月で焼いたアップルパイは7、8台だったと思う。生地を編み込む感じはプロ並みになっていたし、リンゴの皮剥きは素早くなったし、弟も愛犬もバターの匂いに反応しなくなったし。

プロ並みと自負するアップルパイを、私は丁寧にケーキ箱に詰めて、いつもじゃれてふざけて兄のように慕う人に、誰の誕生日でもない勤労感謝の日にプレゼントをした。その人はサプライズに驚いて、匂いを嗅いで微笑んで、チラッと中身を覗いてまた微笑んで、大事そうに抱えて手を振った。

そして翌週に会ったら、「まるでお店のアップルパイみたいに美味しくて綺麗で、とにかくパイのサクサク加減とリンゴの柔らかさと甘さが、今までにないくらい好みだったし、世界一美味しいアップルパイをありがとうと、妹と彼女がとても喜んでいた」と恐ろしくサクッとした感想をくれた。

アップルパイを焼くのをやめたら、母が帰ってきて、父も毎日帰ってきて、弟と愛犬は私に甘えなくなって、私は夜更けにオーブンの前で体育座りをすることはなくなった。

#リンゴの花言葉
#優先
#選ばれた恋