あの日のコードはなんだろう

ここ数日身に起きている出来事が、ずいぶんとわたしの自己形成にかかわる諸問題を貫いているため、今日は仕事の合間に一呼吸置いて思いを馳せること多々であった。

曲を作る時、コードというものを繋げてゆく。コードとは、Cマイナー、E、B♭m7(とても好きな音である)、音のかたまり・和音のことである。ある組み合わせにはそれを指せる名称が付けられる。Cならドミソ、マイナーとついていたら真ん中のミを半音下げたものという意味、そういう、曲を構成している単語・文法・イディオムのようなものである。それらを繋げて文章にする、出来上がって読めた文章、それが曲である。読めないものである場合は、自分がその文法にあまり触れていないか、悪文かのどちらかである。

コードの繋がりのことをコード進行、と言ったりする。この和音の次に、こうきたら、こう行きたいよね!?というものが大概ある。それをコード理論という。

組み合わせというものにはだいたい王道のパターンが存在し、出尽くしていると言っても過言ではない。偉いね人類、やったね文化!王道ってのはチープと思われがちですが、美しいから王道なんですよ。奇を衒うことばかりに傾倒するよりも、自分にとってより美しい比率を追求するのが良いように思います。何事にも通じますね。

さて、コード進行。安定した展開の中で、味をちょっとかえるコードをはさむことがある。123.123と踊っているところに、125.123…と突然の5(いままでいなかったもの)をはさむ。と、より、123…の流れが際立ち、生き生きとし、輝いてゆく。わたしはそういう5のようなコードを「ぐっとくるコード」と呼んでいる。こらそこダサイって言うなっ!泣いちゃうでしょ!

先日、わたしはとても悲しく憤っていた。そこに思いがけない優しさに触れたりして、世界の見え方がぐっと濃くなり、透明になった。それはあの5、ぐっとくるコードにあたるのだろうか。そうだといいな、そうだといいなと思いながら、今日のわたしは123.123…とまた、お気に入りの進行の中に戻っていた。

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