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自分の中の子どもに向けて

しばしば感じている感覚のひとつに、自分のなかの子供の存在、というのがある。

そやつは基本的に何かを作り、考え、作り、考えしている。ただ、社会性はない。いい子にしていることだけは上手だが、それ以上のこと…適切な会話や気の利いたなにか、などがよく分からない。だから、いい子にしておく。礼儀正しく、大人しく、目の届く範囲に留まり、粗相をしなければ良い。いい子というのは重宝されるものである。なぜなら害をなさないから。害をなさないものに対しては、ひとは寛容になるのが常である。

作ったものを人に見て貰えるようになるには、社会性というカードを持てることが必須である。社会性は、いい子でいる、ととてもよく似ているが、主体性と責任とを自身に保有することが前提である。これは、子ではない。

作ったものを見てもらいたかった。「頑張って作ったんだ」などという作り手の感情など作品とはなんの関係もない。まして鑑賞側には更に無関係である。多く子どもはそこを履き違えて喚き易いものだ。だから子どもなのである。それが許されるし、そうしていて良い存在である。だが、わたしの中の子どもは感情を排してものを見る訓練をした。なぜならそれが、ものを作り、人に見られ、社会の中で使われる仕事としての絵を、作れるようになるための心理的機構の基礎であると判断したからだ。つまり、「作っている時のわたしの気持ちなんて、見た人には関係ない」という、覚悟の訓練である。

だいぶ昔からその気持ちで絵を描いていた(10代の頃からそうである)から、ものを作るとき、感情を使うべきところと、理性的である方が良いところとの区別は容易につく。たとえば前者は1番初めのアイディアのときに爆発させる。ある程度の縛りは当然あるし、クライアントの要望をヒアリングし確認をし不明点を洗い出し再度確認した上で、いわば紙質とサイズが決まる。その上での自由をめいっぱい考える。そして、作り込みを始める時は理性的に努める。というか、アイディアを形にする時は得てして冷静に集中するものである。ここに感情の挟まる余地はない。あるとしたら、クオリティに対する執念その1点のみである。それは果たして感情だろうか?

そんなことを考えながら、ものをつくり、ここ数年でそれらは表に出る機会を得ることが増え、ありがたいことに書店にならぶ書籍のなかに登場させていただいている。先日献本をいただき、とても嬉しく、にこっとした。

その絵を見るために本を買ってくれた人がいた、と、先程知ることが出来た。

わたしはにこっとし、自分の中の子どもは顔を真っ赤にしてわなわなと黙っている。感情の色が多く深さがあるものに、対応できるほどに冷静になれないそやつは、私に背を抱かれて大泣きしている。よかったね、見てもらえたね。いっぱい考えて、描いて塗ってをしたものね。また作りたくなったね、もっともっと上手になりたくなったね。そう思えるのが、嬉しいよねぇ。

そんなふうに思いながらの今朝でした。ありがとうございます、また今作っているものも、これから作るものたちも、きちんと、より一層、頑張ろうと思います。

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