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対話と会話 「語らい」についての一考察

 先週末のオープンダイアローグに関する質疑応答の際に、終わりの方で対話(ダイアローグ)と会話(カンバセーション)の相違について話題になりました。かねてからこの違いについては、少し気になっていたのですが、申した問題を森川先生らと話し合えたのはとても貴重な機会でした。

 そもそも、日常的には似たような使われ方をする二つの用語ですが、専門的、もしくは専門家によって使うわけをしていることも少なくありません。様々な論者によって、意味するところも異なってきます。
 『統合医療の哲学』を執筆しているときに調べたところでは、哲学者のハーバーマスは、間主観性との絡みで「会話」を重視していたようですし、物理学者のデヴィッド・ボームは「言葉を通して」というギリシアの語源に遡り、意味の流れという観点から「対話」を重視していました。そして最近の風潮では、丁寧な話し合いのプロセスにおいて「対話」の用法が(とくに「オープンダイアローグ(OD)」の普及に伴って)一般化してきたように感じています。
 ただ一般的な意味合いとして、対話にはどこか説得的な意味合いを感じるという意見も少なくなく、ODの基本原理としての話すことの継続という意味からしても、「会話」のもつ継続性の方が妥当に感じざるを得ません。それを反映するのか、質疑の中で小畑さんが、家族療法において当初は「対話」が用いられていたのが、「会話」へと変化してきたという指摘をされていたのが印象的でした。
 普通に感じるとやはり「対話」の方が少し「カッコいい」感じがあり、それは話している内容が「高級」な感じがすることもあるのではないかと感じます。
 これに対して「会話」はその内容が、「ふつう」の印象がぬぐえず、だらだらと継続していく感じでしょうか。であれば逆に、ODが対話の継続、もしくは、対話のために対話するということが目的であれば、「会話」の方が妥当に感じます。いずれにせよ用語のつまらない問題ではないか、と思う人も多いでしょうが、意外にグループでのファシリテーションなどをやっていると、これは「些細な問題」ではないことに気づかされます。
 こうした多元的な場面における「語らい」の問題は、まだまだ始まったばかりです。問題として捉えられてすらいない「問題」といってもよいでしょう。
 しかしこれは、JCやODなど「語らい」を考える際に今後大きな問題、課題になってくることは間違いないでしょう。
 私たちは、複数の要素が併存するという状況を受け入れて、まだ実に日が浅いということを自覚していないのではないでしょうか。
 いわゆる「科学」や多くの「学問」においても、モノローグが大半といっても過言ではありません。精神における巨大な無意識領域のように、ダイアローグの世界はまだ多くが未知であり、今後の直面するテーマとなってくることでしょう。
 モノローグとしての科学的エビデンス(一方的な教条主義といってもよいのかもしれません)が高らかに語られる現在、多元主義とそこで醸造される「語らい」の意義が理解されるのは、まだずっと先のことなのかもしれません…

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