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まなざしの変化について

 先日、甲野善紀先生とお話した時に、剣は主に右手持ちの方が遣えるのではないか、ということを伺いました。
 いわゆる「平等」的な発想では陰陽バランスで、両手遣いになりそうですが、右手重視(つまり常識とは反対)になるという「逆転」する意味について、私の「統合医療の哲学」でも展開した「折衷と多元との相違」と極めて似ているのではないか考えました。いわゆる「あれもこれも」ではなく「あれかこれか」的な考え方といってもよいかもしれません。右手も左手も平等に、ではなく、左手ではなく右手、といった選択です。


 こうした武術など身体技法の伝承が途絶えやすい説明の一つに「まなざし」の変化という現象があるように感じています。
 身体に関する「まなざし」の変化は、それに対しての認識の変化というコトにとどまらず、その実践的な動きにまでその影響が及ばざるを得ません。
 この理屈はフーコーという哲学者から拝借したもので、医学は「死体解剖」を視点に導入した18世紀を境に、制度も含めてすべてが変貌したということが『臨床医学の誕生』で述べられています。つまり進展というのは、それまでの医学体系を取り込みながら複合していくのではなく、異質のものへと変成されていくということで、この契機を「まなざし」の変化に求め、具体的には「不可視なる可視性」として説明しています。フーコーは、このまなざしの決定的な変化の契機を、夭折した天才ビシャの病理解剖に見ており、これにより「死」からのまなざしにより、今日の「臨床医学」が誕生したというのがあらすじとなります。


 私はこの考えは、医学史や武術的なものに限らず、近年のファシアと通常の解剖生理との関係にも適応出来るのではではないかと思います。
 つまりファシアという視点は、病態生理への新たな知見の導入にとどまらず、ファシアの変化をむしろその一歩手前の段階として「疾患」というものを根本からとらえ直すことで、全く新たな視点を得られるのではないか。これは現在展開されている「折衷的な」ファシア論とは一線を画すはずで、まなざしの大きな変化を伴うものです。


 これは本質的には新知見の導入ということに留まらない可能性を有するものです。つまり「あれもこれも」ではない「まなざし」の変化は、大きな「対立軸」をもたらすものでもあります。これこそは「剣の持ち方」から「ワクチン問題」まで、わずかな相違を含みつつも、大きな共通基盤になるような気がしてなりません。
 そして現代における大きな問題は、歴史的なまなざしの変化によるものより、大資本による意図的なまなざしの変成のようにも思えます。そして、そうした基盤ゆえに、科学的な論調を飛び越えて「議論」されてしまう面があるように思います。

 またオープンダイアログでは、この「まなざし」への揺さぶりが関与しているのでしょう。ファシアによる視点の変更とあわせて、昨今、関心のある事は、こうした「まなざしの転換」と解釈することも出来そうです。

 以上、年末年始に考えたことを、メモ的に書き出してみました!


臨床医学の誕生
新装版ミシェル・フーコー
みすず書房 2020-04-02



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