ファッシア・ダイアローグ・コヒーレンスについて思ったことなど
最近の当院のキーワードがだんだんと形成されてきたように思います。素材としての「ファッシア」、JCなどの「ダイアローグ」、そしていわゆる共鳴としての「コヒーレント」です。ファッシアもダイアローグも、そこにはコヒーレンスが重要概念となるので相互に関連しているのですが、便宜上の3つとでも言いましょうか。
そんなことを考えるなかで、思考とダイアローグについて、すこし再考してみたいと思います。物理学者ボームは思考のクセのようなところを指摘し(思考の明白な問題点は「断片化」にあるといいます)、それを自覚することの重要性を述べます。また、あらゆる問題はすべて思考の中で起こるとも述べています。
こうした思考のクセのようなものを自覚する方法が「ダイアローグ」にあるというのです。そしてそこからは「洞察」も得ることができると述べています。洞察により、自らの思考を自覚し、そのインコヒーレントな点を超越して「コヒーレント」な状態に至ることができるというわけです。
一人だけでは容易に到達できない状態に、集合体となることで可能になるということです。興味深い挙動の発現もこれを基盤として発動してくるのです。
少し違った観点ですが、このようなことはエネルギー医学の領域においても、かつてから指摘されていました。一例として、ラグビーやサッカーのような集団競技の試合中に負傷者が出た場合のケースが、あるエネルギー系医療の解説書に紹介されていました。その際に、応急処置がとられるのは言うまでもありませんが、それと同時にチームのメンバーが集結して、その負傷者に対して祈りを行うことで、状況の好転や回復の早まりが起こるという指摘がありました。
これは同時にその後、試合続行時にもメンバー間の意思疎通が良好になるという「付加的」な事態も生じうるというのです。それこそ、このチームという集団が「コヒーレント」な状況になっているということだと思います。
我々のジャングルカンファレンスや、相談者を含めたジャングルカフェといった状況にもあてはまる例といってよいのではないでしょうか。
つまり集団が、「首尾一貫した良好な状態」になっているとき(まさにレーザー光線のような状態にあるとき)、それは「コヒーレント」な状態であるといえるでしょう。
これは社会的な集団のみのことではありません。我々の身体は、細胞・組織の集団といってよいものです。つまり一個の身体としてもコヒーレントな状態となりうるのです。
こうしたすべてのシステムに超越したものとして、血管、神経を凌駕して想定されているのが、「ファッシア」といえます。進化論的にも、この出現が最も早いことは言うまでもありません(広義には細胞外マトリックスも含まれますから)
これはエネルギー系の書籍では、何らかのエネルギーを媒体する生体マトリックスやら軟部組織と称されることがありますが、概念の統一を図るとすれば、現時点では「ファッシア」としてよいと思います。
ファッシアに関連する水分子をはじめとする生体を構成する諸分子が、コヒーレントな状態になっていることが、健康的な状態といってよいでしょう。(ちなみにボームは『ボームの思考論』において「ガン」はインコヒーレントであると述べています)
このように考えると不調の状態(インコヒーレントな状態)を、コヒーレントな状態へと復調させる方法、例えばホメオパシーをはじめとするエネルギー医学の特徴がとらえやすくなるのではないでしょうか。
つまり漢方やハーブのように大きめの分子レベルで作用しているのではなく、量子レベルでの挙動で考えるということです。
直接、ファッシアを復調させる徒手療法のみならず、こうしたエネルギー的な観点も許容しながら、生体における「コヒーレンス」ということを考えていかなければならないのではないでしょうか。
こうした考え方は同時に、現在のファッシア研究(や紹介)が、ややもすると限定的な徒手療法の視点からのみで展開されていることにも注意喚起することにもつながります。
確かにファッシアはエコーにより可視化されたことで、その存在がクローズアップされたことは否めませんが、世界的な研究の流れから見ると、エネルギー医学との密接な関係は無視することはできません。(実態を前面に押し出すか、概念を前面に押し出すか、の相違です)
ダイアローグを再考するということは、ファッシアという概念を単なる徒手療法の一用語としてとどめることなく、コヒーレンスという視点から再認識することにもつながるのです。(ここも多くの誤解があり、ただ話せばダイアローグになるというわけではないのです)
コヒーレンスに関しては、最近は、身体内部における定常状態において共鳴する周波数やらホメオパシー、経絡現象論とあわせて具体的な治療論ともリンクしてきています。こうした個々の身体で生じたことに限らず、個人と個人との「あいだ」、そして集団内部で起きていることといった、これまで扱いにくかった「できごと」についてダイアローグからのコヒーレンスは大きく展望を開いてくれるのではないかと考えています。
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