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「文句の付けようのない圧倒的美人になりたい」というのは、魔王に「力が欲しいか・・・・・」と言われて力を欲するダークヒーローと実質同じだ。

美少女を連れてきてみました。(タイトルに合わせて)

ダークヒーローはよく悩んでいる。悪い妖精(?)に囁かれて他者を圧倒する力を授けられ、そうして暴走する。分相応な力は人を破壊する。

私は高校生の頃、「圧倒的に可愛くなりたい」と感じたことが数回ある。日々自分の体形や、顔のつくり、鼻の大きさや手足の長さ太さをどうにか美しくしよう見せようとこねくり回していた。考えたり装飾したりするのに疲れた時、思うのだ、「嗚呼、元からものすごい美人ならこんな苦労なんてないのに」と。

「圧倒的に可愛くなりたい」は2つの気持ちで構成している。

一つは、力がほしい気持ちだ。美女は恋愛という弱肉強食・無法地帯の猛者であり、人は美しさのためなら億単位のお金を動かす。美しいとされる絵画、美しい俳優、美しい景色、美しい料理、美しい住まい、美しいパートナーのために、誰しも余裕があればあるだけ消費する。消費させるだけの力がある。

もう一つは、自分自身が手に入れて享受したいと考える気持ちだ。美しさを身にまとう時、美しい体を手に入れた時の高揚感。美しい洋服や絵画を手に入れたいと感じる心と同じように、自分の体に対しても感じているのだ。

この2つの感覚をすべからく人は本質的に知っている。だから女は「美しくなりたい」と感じる。他者を大勢かしずかせ自分の意のままにできる美しさという力が欲しい。そして単に美しさそのものを自分のものにして享受したい。その2つの気持ちが相まって、「もうなんかシンプルに、生まれ持った美貌で圧倒的に可愛い存在になりたい」と感じる訳である。

肉体的なことに限らず、知力を求めるのもまた同義だ。弁護士ものや医師たちのドラマが大きく流行する時代では、男は肉体的な強靭さではなく、女は持って生まれた美貌ではなく、自身のもつ知力の高さで争い勝利する。ダークヒーローの渇望は形を変えて、いつの時代もその辺をうようよしている。

「可愛くなりたい」という大きな黒い手につかまれて、もみくちゃにされる人は案外多い。心がすさんで疲れ切ってしまっている様子は見ている方が辛くて、「あなたは十分可愛いよ」とつい気休めを言ってしまうかもしれない。違うのだ。言っている本人にとっては心からの「可愛い」という称号でも、本人の目に映る自分は可愛くない。現実だ、顔は変わらない。体も変わらない。”生涯美しさという分野において単体としては弱きものである事実”は、がんとしてそこから動かない。

ただ、その気持ちを分析すると、何も「可愛くなる」だけが手段ではないと分かる。すり替えてしまえばよい。要は、「社会的に力を得る」ことと、「美しいものを手に入れる」ことの両方が叶えばそれで良いわけだ。社会的に力を手に入れるには、まずは勉強しよう、経験しよう、わかりやすい金銭の指標で上りつめよう。お金があれば、美しいものは揃えられる。自分を美しく魅せてくれるものもサービスも取りそろえられる。経験を経て美しさの種類の豊富さを知ることができ、自分が得意な美しさを選び取れるようになる。

そして何より、”元から強者”でない人に与えられる最高のプレゼントがある。それは、自分に対する信頼と、心からの尊敬、自信というかけがえのない力である。自分の人生を、持ったカードで工夫して生きているという自己効力感である。この力の大きさは、自分で努力して、一生懸命に何かをつかんだことのある人にしか分からないものだ。更には、周囲の共感という数の力も合わさる。弱者の気持ちが本質的に分かる強者ほど、多くの人の信頼と共感、協同による”大事業”が叶う人物はいない。分相応ではない実力による安定感は、人々に安心感という価値を与えられるのだ。

男も女も変わらない。他者より優位にたち、出会う人間に尊敬され、大切にされ、発言力と決定権をもちたい。力が欲しいだけなのである。そこからだ、そこから、「美しさという圧倒的な力」を手に入れるために動けばよいのだ。自分は美しいのか?美しくない。なら動くしかないだろう。天才にはかなわないと言って不貞腐れて何もやらないのは個人の自由だが、私は絶対にそんな人生は嫌だ。勝手に一人で不貞腐れていれば良い。私は少しでも先へいく。少しでも、より良い方へ。より広い世界へ行くのだ。

そのうちに、自分が人から見て美しいとか美しくないとかがどうでもよくなる。自己肯定感、そして自己効力感が高まった結果、「嗚呼、自分は生まれた時から美しかったのだな。さすが私。最強。」と感じる。

気の持ちよう、心の持ちよう。そして努力は心を救う。



おわり

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