見出し画像

神と仏の共存する場

秋田県横手市十文字町の今泉地域には、寒梅山永泉寺という、未だに近世以前の神仏習合の姿を残した曹洞宗の寺社がある。
境内には京都の祇園社(現在の八坂神社)に起源を持つ小さな社があり、毎年八月十五日に祭典が催され、今泉祇園囃子と呼ばれる神輿行列が行われている。鳥居さえなく、見ず知らずの者には神社とさえ認知されないであろう、片田舎の素朴な民間信仰の名残が、今も尚、彼の村に存在している事に、歴史的関心と共に、ある種の郷愁を抱かざるを得ない。
由来を聞くに、十九世紀の初頭、この地に暮らす農民を長らく悩ませたケダニ(ツツガムシ)による災禍を鎮める為、時の和尚であった龍賢と肝煎(関東で言う所の名主に相当)とが発起し、京都四条の祇園社より牛頭天王尊像を勧請したのが起源に当たると言う。当地の近くには、砂虱川原(けだにがわら)という地名の河原があり、二十世紀になってもツツガムシ病の猛威が吹き荒れていた事から、自然科学を知らない江戸期の村民が、疫病から逃れるべく神に縋りたくなる気持ちが良く分かる。
神仏が混交すると言えど吉田神道の系譜とは異なり、御祭神の牛頭天王は、元々天竺の祇園精舎の守護神であり、古事記にも日本書紀にも登場しない為、現代人である我々にとって、本来神の存在しない仏教と日本に起源を持たない神が習合されているというのは不思議にも思うが、江戸期の同地域の農民たちによる信仰が、歴史的文脈や論理的整合性に囚われず、良く言えば融通無碍、悪く言えば非常に好い加減であった事が理解出来、そうした意味で今泉の祇園社は極めて重要な史跡である。また、同地域には菅江真澄が訪れており、彼の著書である「雪の出羽路 平鹿郡」に周辺の村々の地名の由来などが記載されているが、当時の村人が同地に存在する「駒引」という地名の本来の意味を忘却している事を指摘しており、こうしたエピソードを元に少しく想像を働かせるに、現代のように誰もが文章を綴り、文献資料を利用する事の出来る時代ではない江戸の頃、地名や寺社の由来縁起の類は、村人の記憶から時と共に消え失せ、また伝聞を繰り返す内に尾鰭が付き、本来の意味からは程遠くなってゆくものであったと言えよう。近代以前の「八百万の神」という言葉が意味するのは、記紀成立以後も、古代から中世、近世の長い歴史の中で、舶来の神々や本朝において新たに生じた神々をも柔軟に取り込んでいく、或いは自ずと取り込まれてゆくという事であったのだろう。
明治元年、新政府より布告された神仏分離令を受け、列島中を廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたが、京都の祇園社が八坂神社と改称したのを皮切りに、全国の祇園社の名を冠する神社が相次いでその名を変えた。そして、牛頭天王という舶来の神が無理矢理、須佐之男命と同一視され、日本神話へと組み込まれた事により、かつては神官のみならず、僧侶が居たという京都祇園社の長きにわたる神仏習合の歴史は終焉を迎える。明治政府にとって、仏教も牛頭天王なる異質な神の存在も、神道の国教化、祭政一致を進める過程で、如何に目障りであったかが伺える。無論、この明治初頭に行われた急進的な神道の国教化が、後に国家神道なるカルト宗教を生み出し、朝鮮・台湾等の植民地人をも翻弄した結果、戦後、日本の対外関係において禍根を残す事になったのは、歴史を知る者であればご存じの事であろう。
戦後、我が国は政教分離の原則に基づいてはいるものの、五十五年体制崩壊の「崩壊」の後、政権与党へと返り咲いた自民党が、浮気の常習者の如く連立相手をコロコロ変えた挙句、新興宗教団体である創価学会を支持母体とする公明党と蜜月の関係となり、政治における特定の宗教団体の影響が大きくなって久しい。ゼロ年代の後半に民主党への政権交代が行われた後も、自公両党はズブズブの関係を続け、ネトウヨと創価学会の組織力を利用したネガティブキャンペーンによって、民主党政権を瓦解させているが、彼らの用いた手法は議会制民主主義の根幹を成す議論や対話に非ざる事は言うまでもない。政治分野に宗教色や暴力性が強化される事は、あたかも中世への回帰のようであり、このままでは日本が近代化を迎えた意味が失われるとこれまで思っていたのであるが、幸いなことに、昨年十一月、公明党支持者のアイドルであった池田大作がようやく鬼籍に入り、自民党では現下、清和会を中心に、司法による猛烈な裁きが下っている事から、自公両党が下野する日は近いと私は読んでいる。彼らは第二次安倍内閣成立以降、意味不明の経済政策である「アベノミクス」やら何やら、ある種、宗教染みた事ばかりを行ってきたが、今、こうした失政の清算をさせられている状況を見るに、やはり、反知性的、非科学的な言動により民衆を誑かした者は、二十一世紀を迎えた今尚、必ず「神罰」が下ると相場が決まっているようだ。
さて閑話休題であるが、昨年、京都旅行をした際、八坂神社へふと足を運んだのであるが、既に、そこには近世までに見られた、神仏が混交した京都祇園社の姿は、当然の事ながら、跡形も無くなっていた。異様な風体をした山鉾の巡行のような祭事だけは残っているものの、境内は、終戦を経て日本国憲法下となり久しい今となっても尚、記紀に記された神道的世界観のままであり、天照大神を祀る社と同列に並べられ、「悪王子」呼ばわりされている、かつての牛頭天王の姿に少しく虚しさを憶えた私は参詣を取りやめ、四条大橋を引き返し、先斗町の細い路地を抜け、行きつけの料理店に入った。納涼床で鴨川の絶え間ない流れを眺めながら私は、梅雨前の涼やかな風を浴び、冷酒の盃を独り静かに傾けた。最早、現代において、祇園社は今泉にしかないという事実を、恰も胃袋へ流し込むように。

参考文献:十文字町史編纂委員会(平成八年)『十文字町史』、未来社(昭和五一年)『菅江真澄全集第六巻 地誌Ⅱ』

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?