言語教育(日本語教育)を企画するときにまず認識しておくべきこと
標記のこと、箇条書きで書いてみたいと思います。
1.学習者の第一言語(あるいはすでに習熟している言語)と目標言語の距離
2つの言語を考えた場合に、「兄弟言語」(や「親戚言語」)か、「他人言語」かをまず認識しなければなりません。ヨーロッパの諸言語は、端的に「兄弟言語」か「親戚言語」です。Language distanceの研究では、ヨーロッパ言語間ではざっくり言って、類似しているものも含めて語彙が70%重なっているそうです。
ヨーロッパ言語話者だけでなく、アジアやアフリカ等の言語の話者にとっても日本語は「他人言語」です。語彙の重なりもないし、いわゆる文法もぜんぜん違う(←これは程度の違いがありますが)。
だから、当然、ヨーロッパ言語の話者が他のヨーロッパ言語を習得することは容易です。米国国務省語学研修所が実施した有名な研究によると、英語話者はフランス語やスペイン語やイタリア語などの「兄弟言語」の場合では24週間(720時間)の集中教育でprofessional level(話すことも読み書きも外交官などの仕事ができるレベル)に到達することができます。そして、「他人言語」の日本語では、3−4倍の80-92週間(2400-2760時間)かかります。
ヨーロッパやアメリカ発祥の言語教育法では、普通は、ヨーロッパ言語の人が他のヨーロッパ言語を学ぶ場合を想定しています。つまり、「兄弟言語」の学習や習得や教育を想定しています。そして、その想定は、かれらが日本語を学ぶように「他人言語」の場合には、あまりにも前提の条件が異なりますので、ほぼ当てはまりません。ですから、ヨーロッパやアメリカ発祥の言語教育法を、日本語教育や日本の学校の英語教育などに応用しようとすることは、おおいに「用心」が必要です。
2.文法が「濃密」か、文法が「希薄」か
拙著(2020)で述べましたが、日本語には文法らしい文法はなく、あるのは語法だけです。「語法だけ」というのは、日本語では、言葉を連ねるときに連ね方の適切さだけはあるが、ヨーロッパ言語の場合のような「余分な」文法はない、ということです。ヨーロッパの多くの言語では、冠詞があり、単数形と複数形があり、形容詞も冠詞も男性形と女性形があって名詞を修飾するときには性の一致をしなければならないなど、(日本語話者の目からすると!)「余分な」文法が種々あります。また、文法というと、日本語の活用がむずかしいとよく言われますが、活用の複雑さの観点から言うと、フランス語の活用やドイツ語の活用の足許にも及びません。端的に言って、日本語は文法が「希薄」です。ですから、要は、話すときには、基本、ただ言葉を並べればいい、ということになります。(中国語はもっと「言葉を並べればいい」となります。)
それに対し、ヨーロッパの言語は、最もシンプルな英語でさえ、日本語話者からすると、「余分な文法」が多々あります。
それで…、要は、文法が「希薄」な言語は学びやすく習得しやすい。文法が「濃密」な言語は学びにくく習得しにくい、となります。
ですから、口頭日本語だけを習得させることに集中するなら、日本語は学びやすく、ほとんど語順の習慣を身につけて、後は(語法に一定の注意をしながら)語彙を覚えさえすればかなりの程度話せるようになると言っていいでしょう。(動詞の活用部分の困難への対応についてはさらなる議論が必要。しかし、「活用の知識が必要で、それがむずかしい!」という主張は、「活用の知識が必要」の部分に疑問の余地あり!です。)
3.日本語がアルファベット表記でないことが巨大な障壁
日本でであれ、海外でであれ、どこで日本語を学ぶ場合でも、50音図にしたがって日本語の発音を一通り練習した後に、いきなり「では、ひらがなを勉強しましょう!」となります。そして、ひらがなの練習の次には、カタカナの練習が来ます。さらに、課の勉強の進行にしたがって漢字も教えられます。
皆さんもご認識のように文字・表記は、日本語習得上の巨大な壁です。ひらがなだけでも大きな壁で、カタカナが来ると二重の壁で、漢字がやってくると、もう普通の学習者には越えられそうにない巨大な壁です。
そんなひらがなをなぜわざわざ入門時の「いきなり」に学習者にぶつけるのでしょうか。「ひらがなの学習という壁を越えられない者は、日本語を学ぶ資格がない!」ということでしょうか。わたしなら、「まずは日本語が話せるようになりたい」という学習者の場合であれば、文字の学習を半年あるいは1年後に延ばします。そのほうが、圧倒的に日本語を勉強してくれる人が増えるし、日本語の勉強を続ける人が増える!
「日本語の表記ではなく、ローマ字などを使用すると、発音が悪くなる!」と言う日本語の先生が多いと思います。それは、ローマ字表記の日本語を読ませるからです。ローマ字表記の日本語はあくまで「メモ」というふうにして、オーラルでの練習をしっかりすれば、特段に発音が悪くなるということはありません。
いずれにせよ、日本語の文字・表記が、口頭と書記の両様の日本語を習得するという場合には、巨大な壁となります。だからこそ、この「壁」を教育課程全体のどこにどのように置き、どのような習得の経路を計画するかは、日本語の教育者が真剣に考えなければなりません。現在の日本語教育で行われているやり方はあまりにも「無策」です。
ちなみに、50年前までの北米の日本語教育では現在のようにはなっていませんでした。文字や書記日本語の学習は、1年あるいは2年遅れて行われていました。それまでは、オーラルの日本語の習得に集中していたわけです。合理的だと思いませんか。
文献
西口光一(2020)『新次元の日本語教育の理論と企画と実践』、くろしお出版
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