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Big boss、新庄剛志①

 半年ほど前に書きかけた記事ですが。
 Twitter的に書きます。とは言っても、どうも新庄の話は、いくつかimplication(示唆)がありますので、何回かに分けて話をしたいと思います。今回は、イントロダクションも含めての第1回です。

 ぼくは野球ファンとも言えませんが、今シーズン、オリックスがパ・リーグで優勝して、阪神がセ・リーグ優勝を逃したことくらいは知っています。で、プロ野球関係の最近のビッグニュースが、元阪神→北海道日本ハムの新庄くんの日ハム監督就任のニュースです。
 現役時代の新庄は派手なパフォーマンスでファンを楽しませてくれました。実は、プレーも一流!(らしい!)。たぶんそうなのでしょう。長身でがたいのしっかりしたパワーありげな体してるし。
 その新庄、4日の記者会見で、以下のような迷言!? 暴言!?

1. ビッグボスと呼んでください。(以前住んでいた)バリ島で呼ばれていた。僕の人生なんてそんなもん。カンピューターで突き進んでいるだけ。(報道陣に配布された名刺には「BIGBOSS SHINJO」と記されていたそうです。今日のニュースでは、キャンプ地沖縄の空港に派手な出で立ちで現れた新庄は、早速みんなから「ビッグボス!」と声をかけられていた!)
2. 優勝なんか一切目指さない
3.こういう野球で、ヒットを打たなくても点は取れるんだぞと。作戦面での面白さ、こんな野球があるんだと発信したい。
4. 選手は高い目標を持ちすぎると、うまくいかない。9月になってか優勝争いをしていたら、そこの気合いの入り方は違ってくる。

 新庄、素敵なヤツですね。(アンチ新庄の人もいるだろうけど。)
 実は、新庄には新庄なりの考えがあるのだろうと思います。(この「考え」の部分、最初は「信念」にしていましたが、「信念」というとやや人工的で作為的なニュアンスになるので、「振る舞い方から帰納するとこういう考えがその背後にあるようだ」ということで「考え」にしました。)
 まずは、野球は本来「遊び」だし、楽しくプレーするもの。もちろん試合に勝ちたいという気持ちは共有しないといけませんが、「優勝することを目標に野球をして」はいけないと考えているのでしょう。それぞれの試合に、フツーに「勝ちたい!」という気持ちで臨んで野球を楽しむのが本来だという信念があるのでしょう。
 また、「監督ではなく、ビッグボスと呼んでください」というのは、「まあ『監督』かもしれないけど、自分は楽しんで野球をする選手たちの親分(boss)であるだけで、優勝という『重荷』を背負って選手たちにハッパをかけるなんてことは一切するつもりはない」という宣言でしょう。ぼくが読んだ記事の記者も上の4に「選手に過度な重圧をかけたくない考えだ」と解説しています。
 新庄の考えをまとめると、「オレがボスになってヤツらといっしょにしっかりと野球を楽しむ。そして、そうしてしっかりと楽しく野球をしている姿を皆さんに見てもらう」、それだけなのだろうと思います。

 新庄の考えは、人類学で言うpractice=実践という概念に重要な示唆を与えています。実践をいわば静態的に理解すると、それぞれの人がそれぞれの立場における期待される役割を十全に果たすということになります。そして、それぞれの立場の人は、それぞれの立場の役割を適正に認識し、(トレーニングや練習を積んで)それを遂行する知識と技量を身につけて、その役割を遂行する、というのが静態的な実践の捉え方です。これに対し、当事者の具体的な現場性や即興性等に注目するのがや言わばダイナミック(動態的)な実践の見方です。ダイナミックな見方では、当事者は自身のそれまでの当該の実践の従事経験を通して、その実践の仕方を知っているしそれを遂行する技量も身につけているが、具体的な実践のパフォーマンスには具体的な現場の条件が基本としてあり、ある場合は慣習的な仕方に沿ってほぼ自動的に、また別の場合にはその具体的な条件下において即興性や今回の独自の工夫や新たな試みや場合によってはちょっとしたおふざけなども伴って、実践が行われる、という見方です。このダイナミックな見方の極端な実践例は、「型破り」の実践者です。「型破り」というのは、オーソドックスなやり方にも一定の幅があるわけですが、そのオーソドックスを外れて「とても『フツーのそれ』とは見えない実践の仕方です。新庄は、従来のプロ野球チームの監督という型を破る監督=ビッグボスなるのでしょう。

 さて、ここで理論的にもう一つの重要な視点。「新庄は『監督』なのか」という問題です。この問題については、LPP(正統的周辺参加論)が明確な定義を与えています。端的に言うと、社会には、しっかりと制度的に規定されているか規定が曖昧で緩やかであるかのグラデーションはありますが、ある種の「正統性」(legitimacy)というものがあります。新庄の場合は、日本ハムという球団と「監督」という名の仕事をする契約を結ぶわけで、とても具体的に制度的に「監督である」正統性が保障されることになります。つまり、新庄は、どんな型破りな采配や行動や演出をしても、それは「日本ハム監督である新庄」がやっていることになります。この正統性というのは、実は近代や現代などの資格や契約などが整備されている社会では正統性は制度で明瞭になるのですが、近代以前の社会での民間療法師や霊媒や占い師(例えば、台湾では「プロの占い師」が普通にいます!)がなどではしばしば制度がありません。近代や現代の感覚で言うと、みんな「無資格」でそんな仕事をしているわけです。では、かれらの正統性の根拠は何でしょう。それは端的に言うと、世間の認知です。世間がかれらを、「立派な」療法師、霊媒、占い師などとして認知していることです。もちろん、それには、その人たちが「○○先生の下で10年間修行した」とか「△△師の弟子だ」などの情報や、「過去5年間だけでもこれだけの人のこんな病気の治療に成功している」などの名声などが含まれます。

 はい、ここからようやく、第1回目の記事としてのimplication(示唆)です。
 世間の認知に基づいてであれ、制度に基づいてであれ、「○○である」という正統性がしっかりと保障されていれば、かなりの「型破り」は許容されるということです。もう一歩言うと、「制度の基づいて」の方の場合は、わかりやすくて、その役割・立場を「解雇されないかぎり」、どんな「型破り」をしてもそれであり続けられる(し「お給料」ももらえる!)わけです。ただし、どのような役割・立場であれ、オーソドックスにやろうと「型破り」にやろうと、一定の成果は要求されます。特に、プロあるいは専門職として「雇われる」場合はそうです。(プロ野球の監督である新庄の場合は、優勝することなども一つの成果ですが、北海道の人たちを元気にしプライドをもたせ、同時に観客動員数が上がりテレビ等の放映料やグッズの販売などの営業利益をあげることも実は監督としての成果になります。)




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