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論文らしい論文!?

 論文らしい論文は、どうしても特定のdiscipline(研究分野)の書き物になってしまうような。そして、特定のディシプリンの書き物はその分野の「ご同輩」(colleague)に向けてのものになるので、その分野の一つのテーマの追究にはなりますが、どうしても「閉じられたサークルのもの」になってしまいます。仮に重要な知見が得られたとしても科学的な知見というのは「Existing evidence suggests ---」(現在利用可能な証拠を見る限りで、以下のことが言える」なので決して真実ではないし、また、そういう知見はたいてい「実践者の関心や判断における思考」(ここで、「実用」と書いてはいけない!)とはたいていほど遠いです。さらに、現実の実践に関わるきわめて重要な知見(これまでの「常識」を覆すような!)が得られたとしても、その知見が現実の実践に関わる人たちに「普及」するのに「運がよくても」ものすごく時間がかかるし、たいていは実践に関わる人たちに届きません! そんなことなので、きわめて重要な知見は結局実践者と実践に届かず、「常識」にマッチするような知見や、「常識」を少しだけ精緻化したり、ほんの少しだけ修正するような知見のみが実践者や実践に届きます。このあたりは、日本語教育でいうと、教育実践のパラダイムレベルの問題なのかもしれません。つまり、これまでのパラダイムを覆すような知見は届かず、これまでのパラダイムの上での「実用的な」知見のみが実践者や実践に届く、ということかも。
 なので、教育実践に関心をもつ「研究者」は、教育実践的関心をもつ人たちに関心を向けてもらえるor読んでもらえるボーダーライン上で「研究的発信」をしなければならません。ただ、それをしていると、研究ということについて第一文に書いたようなイメージをもっている人たちからは「かれの発信/書き物は、研究ではない!」と言われます。ですから、「関心を向けてもらえるor読んでもらえるボーダーライン上」でありながら、一方で、一つの特定のディシプリンではなく「ディシプリンの境界域」でもいいので、ディシプリンに(当面は!)見えるものに仕立て上げないとしないと、発信/書き物がディシプリナリーな研究者が「いちゃもんをつけ」ます。
 このあたり、まさに綱渡り!

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