主体的に考えることは、そのまま「主観的」ではない!

 9才から14才の5年間プラハ(チェコ)で過ごし、現地のエリート学校に通い、後にロシア語同時通訳、エッセイスト、小説家となった米原万里さん(-2006)のエッセイの一節から考えたこと。

<○×式や穴埋め式のテストに初めて接して>
 初めてこのタイプの出題に接したときは、正直言って、嘘じゃないか、冗談じゃないかと思った。無理もない。それまで5年間通っていたプラハの学校では、論文提出か口頭試験という形での知識の試され方しかしていなかったのだ。
「鎌倉幕府が成立した経済的背景について述べよ」
「京都ではなく鎌倉に幕府を置いた理由を考察せよ」
というようなかなり大雑把な設問に対して、限られた時間合いに獲得した知識を総動員して書面であれ口頭であれ、ひとまとまりの考えを、他人に理解できる文章に構築して伝えなければならなかった。一つ一つの知識の断片はあくまでもお互いに連なり合う文脈を成しており、その中でこそ意味を持つものだった。
 ところが、日本の学校に帰ってきたとたんに、知識は切れ切れバラバラに腑分けされて丸暗記するよう奨励されるのである。これこそが客観的知識であるというのだ。…
 これは辛かった。苦痛だった。記憶は、記憶されるべき物事と他の物事、とくに記憶する主体との関係が緊密であればあるほど強固になるはずなのに、単語と単語のあいだの、そして自分との関係性を極力排除した上で覚え込むことを求められるのだ。ひたすら部品になれ、部品になり切れと迫られるようだった。自分の人格そのものが切り刻まれ解体されていく恐怖を感じた。(米原万里「心臓に毛が生えている理由」)

 上の引用、ぜひしっかり「味わってください」。米原さんが丸暗記を要求されたときにどんな気持ち、心理になったか!

 で、わたしが注目して取り上げたいのは「客観的知識」の部分です。この「学校の論理」だと、バラバラの知識が客観的知識で、自身の思考や判断に基づいて一定の視点の下に有機的に構造化されたディスコース(論文やレポートや口頭試験での答え)は「主観的だ」ということになります。これ、皆さん、どう思います。これだと、物事を視る自分自身の視点を持つことがそのまま「主観的」ということになります。そして、「『主観的』はだめ! 『客観的(ちしき)』を身につけてください」と先生から言われるのです。ええっ! それだと、「一定の視点をもって考えることはするな!」と言うか、考えるということはそもそも一定の視点の下に概念や事柄をまとめ上げることなので、「あなたたちは考えなくていい! 考える力を身につけなくてもいい!」と言っていることになります。

 ちょっと頭を冷やして、別の観点で考えてみましょう。これ、「客観的知識」はまあ取りあえずいいとして、「主観的」という言葉の使い方が間違っています。「自身の思考や判断に基づいて一定の視点の下に有機的に構造化されたディスコース」は「主観的」なのではなく、「主体的」なのです。「自身の思考や…ディスコース」というのは、思考主体である自身との関係性も自覚的あるいは無自覚的に構築しながら、学んだいろいろな知識を再構成して、一つの自身の思考あるいは思想としてまとめ上げることです。これをしないと、主体的な思考は身につかない! (あるいは思考というのはそもそも主体的なので)思考が身につかないし、きちんと思考する習慣及びきちんと思考してその思考を表明する習慣や、そもそもの思考する態度も身につかない! つまり、自身の頭でしっかりと考えて判断して行動する立派な主体に、あなたたちはならなくてもいい!と言っているようなものです。

 これは大きな問題ですね。ただ、これって、実は、assertion(自分の考えをきちんと述べる)の文化の問題につながります。図式的に言うと、西洋はassertionの(ある)文化、日本はassertionが抑制される文化、となります。そして、そんな文化的背景があるので、日本では熟考が足りないassertionは「主観的!」「独善的!」と非難されます。一方のassertionの文化では、特にリーダーの立場の人は、集まって議論するとき、自身も能動的に参加して他の人とさまざまな情報、視点、観点を共有しながら一定の思考や判断にみんなで作り上げていきます。実は、「文化」とは言わないほうがいいですね。「文化」というより、その場やその集まりの目的に合う「話し方の作法」の問題と言った方がずっといいです。

 ああ、長くなりましたので、このへんにしましょう。「教訓」としては、何かを探究する人、探究を続けている人は、探究途上でも「もう少し主体的にassertしていいんじゃない。assertする習慣や態度を身につけていいんじゃない」となります。

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