メルロ=ポンティ論からの「さざ波」 ─ 野生の勘と優れた知性、そして反骨精神(20210831)

 メルロ=ポンティの思想の核心は心身一元論です。心身一元論では、学問等をする場合でも「心身一元で考えろ!」となります。
 わたしたちはみんなフツーに言語を使って人として生活することを運営しています。言語は、わたしたちに染みついていると同時に、わたしたちはそれを自在に用いています。また、わたしたちはそうおうに人類の歴史を勉強しているので、原始の時代の人間の暮らしやその中でのことばを仲立ちとしたさまざまな活動に思いを馳せることができます。さらに、多くの人はは第二言語や第三言語を学習・習得した経験もあるでしょうし、第二言語等を教える経験もしています。これほど広範に言語に「親しんでいる」わたしたちは、みんな言語を哲学する資格があると思います。
 そして、そうしたわたしたちが言語を哲学する際に重要なことは、第一に「野生の勘」です。つまり、すでに十分に熟知し慣れor使い親しんでいるこの言語というヤツをしっかりと自らの感性を働かせて自分なりに客観的に眺めるor見つめることです。そして、ことば学や言語哲学を勉強する際には、学者や言語哲学者が言っていることと、自身の「野生の勘」を照らし合わせて対話をするという姿勢が重要です。さらに、その際に重要なのは、その学者や哲学者が言っていることが、自身の「野生の勘」にフィットするのかしないのかの直感的な評価です。学者や哲学者の言うことが自身の「勘」とかけ離れている場合は、その学者・哲学者の説とお付き合いするのはやめたほうがいいかもしれません。
 ただ、ここで問題なのは、わたしは上で「野生の勘」と「勘」を言い分けましたが、「勘」のほうはしばしば学んだ知識や教えられた知識で曇っていることです。そして、「野生の勘」のほうは、そのような曇りを拭い去ったときにはじめて現れてくる勘です。そして、優れた学者や哲学者は、そうした曇りを逃れていることが多いです。だからこそ、優れた学者や哲学者の見解や思想は粘り強く傾聴するに値するのです。上で、「自身の「勘」とかけ離れている場合は、その説とお付き合いするのはやめたほうがいいかもしれません」とは言いましたが、「かけ離れて」しまうのは、あなた自身の「勘」が曇っていて、あなたの中に本来あるはずの「野生の勘」があなた自身に見えていないからかもしれないのです。(その「曇り」は、「世間一般」でいようとする「曇り」かもしれません。)
 ヴィゴツキー、バフチンもそうでしたし、メルロ=ポンティもそうなのですが、かれらには「野生の勘」と「優れた知性」があって、両者をかけ合わせた「優れた知性に磨き上げられた野生の勘」をもっている感じがします。かれらは、「野生の勘」がとても鋭くて、それを「優れた知性」でしっかりと言葉にして表現していると思います。そして、わたしのほうは「野生の勘」が鋭いかどうかは分かりませんが、少なくとも「世間一般」でいようとする「曇り」はなく、むしろ反骨心が強いと言っていいでしょう。そんなわたしには、ヴィゴツキー、バフチン、メルロ=ポンティらのディスコースはとてもよく心に響くし、かれらのどの言葉もきら星のように光り、ないがしろにできないです。
 第一歩は、反骨のすすめ!、かな。 そして、野生を目覚めさせよ!!

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