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ヴィゴツキーの言う科学的概念について

 ふとした思いつき。

 ご存じのようにヴィゴツキーは、生活的概念と科学的概念という対比を出しています。
 生活的概念とは、就学以前の子どもがすでに発達させている概念です。その(生活的)概念は、どのように働いているかというと、(1)(就学前の)子どもは親やおにいちゃんやおねえちゃんといっしょにする日常的な生活に従事することができている、(2)子どもが生きることに従事している他者との協働的で共同的な世界は自然(のまま)の世界ではなく、社会的文化的な人間的な人工的で仮想的な世界である、(3)そんな仮想的な世界で相応に適正な「振る舞い」(doing)ができるということはその仮想的世界を何らかの形で「知っている」(knowing)ということである。そして、(4)「知っている」ということは、その「知る」の内容という意味での「概念」が発達している、ということです。ただし、これもヴィゴツキーが言っているように、子どもはその概念を自覚していませんしできませんし、その概念に相関している話していることばも自覚しませんし、自覚することができません。
 それに対し、科学的概念は、(日常的な)生活をすでに経験できるようになっているこども(たち)が、その生活の経験のさまざまな側面(対象の場合は理科、社会現象の場合は社会科、数や量に関わる現象の場合は算数、など)に対して特別な注意を払い、注目して探究することで、その全体像を把握したり、そのメカニズムを理解したり、それに関わる要素・要因を明瞭に把握したりする、そしてそれを達成した場合に、知っていることになる、あるいは持っていることになる概念です。それは、日常的な生活活動の当事者であることから一歩身を引いて、自身の生活の経験そして他者と共有している生活の経験を「見つめて」「分析して」「解明する」視線に基づいて育まれる概念(知識)です。

 ヴィゴツキーが言うように、学校というのは、そうした科学的概念を身につけさせるために特別に設えられた「社会的な装置」です。そして、重要な点は、学校教育を受けて、当事者の立場から一歩身を引いて科学的概念を発達させた子どもたちは、そうした科学的概念を携えて社会に出て、その社会では、社会活動の当事者となって、科学的概念に支援されながら物を見たり、対象や課題を捉えたり、課題の解決法のメドをつけたりなどをするわけです。

 学校では、生活活動の当事者であることから一歩身を引いて科学的概念を発達させるのだが、社会に出たら、社会活動の当事者となって科学的概念に支援されながら活動に従事するというところが、とてもおもしろい点です。

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