母語話者言語教育者の強み(20211009)

 先に、英語の先生のことを書いたので、こんどは日本語の先生のことについて書きます。
 日本の英語教育者は典型的な非母語言語教育者で、日本語教育者は典型的な母語話者教育者です。(この指摘の詳細な内容は省略。読者のほうであれこれ思いをめぐらせていただければ。) 日本語教育者は母語話者言語教育者であるがゆえに、「日本語話者ならだれでも日本語を教えることができるんじゃないの!?」という何とも「失礼な言葉」をしばしばあびせられます。また、「先生は、英語や中国語ができるんですか。授業は英語や中国語でするんですか?」というような「(日本語教育業界的には)とんちんかんな質問」を受けます。
 こうした「失礼な言葉」」や「とんちんかんな質問」を多くの日本語教育者はにべもなく否定します。たぶん「またそんな『ひどい』質問を!」という気持ちがあるので、にべもなく否定することになるのでしょうが、この質問をきっかけとして自己反省するのも一定の価値があると思います。
 前者の「失礼な質問」については、わたしたちが行っている「教える行為」の中のどの部分/どのくらいが「母語話者であればできる」ことであり、どの部分/どのくらいが「専門的な教育者でないとできないか」ということを振り返ってみるとおもしろいと思います。
 後者の「とんちんかんの質問」については、( )に書いたように「現在の日本語教育の建前的な?アプローチとしては」ということで、「日本語の先生はできるだけ日本語だけで日本語を教えます」と多くの先生はなぜか誇らしげに?応えます。この応えはけっこう「まゆつば物」であるかと思います。もともとの質問にもう少し親切に応えるならば、「語彙や文法説明については、英語や中国語での解説書などが用意されています。学習者はそれらを参照できるので、授業については主として日本語でやっています。しかし、質問があったときなどは、媒介語も使いながら対応することもあります」となるでしょう。
 さて、このエッセイの主張です。日本語教育者は、「母語話者」言語教育者としての強みを十二分に発揮しているか、です。日本語教育者は、授業実践において母語話者教育者の強みや持ち味を十分に発揮しているでしょうか。日本語教育者は、教材作成や教材開発において母語話者教育者の強みを十分に発揮しているでしょうか。そもそも母語話者言語教育者としての自覚があってその強みを発揮してこそ母語話者教育者の値打ちだとというふうに自覚しているでしょうか。そのあたり、あまり自覚されていないように思います。
 母語話者言語教師としての強みの中心は、いろいろな「芸」ができることだと思います。いろんな特徴のある人物を登場させて一人芝居ができる、おなじディスコースをキャラを何種類にも変化させて読める、学習者にわかりやすい文章が書ける、などなど母語話者教師としての有利さがいろいろあります。こういうことを生かして実践してこそ、母語話者言語教育者として胸を張って誇れるのではないでしょうか。「失礼な言葉」や「とんちんかんな質問」を否定しているだけというのは、何ともさびしい。
(2016年10月9日facebook記事の再掲)

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