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内容教科の教育と語学の教育

 「ヴィゴツキーの言う科学的概念について」に続いて。

 「ヴィゴツキーの言う…」で言ったように科学的概念というのは、端的に言うと、反省の産物です。それは、探究や考究などの「追究」という活動が伴って習得が達成されるものです。理科や社会科や数学などの内容科目では、そのような科学的概念の育成が行われます。英語の学習と教育、日本語の学習と教育のような語学の場合はどうでしょう。

 今日(20211107)、ヴィゴツキー学大会(ヴィゴツキー学の学会)に参加しました。わたしは、25年前から10年ほどと、過去5−6年間、ほぼ「レギュラー・メンバー」です。(10年ほどのブランクをはさんでいますが。) ぼくの学術研究活動ということで言うと、このヴィゴツキー学の場がぼくの「ホームグランド」です。この学会を通して、たくさんの知識や情報を知り、学問の方法などを学びや、学問に対する姿勢に影響を受け、人文学の深く広範な展開などに触れることができました。今日のこの学会での諸発表もとてもinformative、resourceful、insightfulで、encouragingでした。来年もまた参加するでしょう。しかし、…。

 このヴィゴツキー学会での主なテーマは、ヴィゴツキーの思想や理論の(西洋の哲学の文脈を踏まえた)探究ですが、時々具体的な教科を採り上げた研究もあります。しかし、そこで取り上げられる教科はたいてい広い意味での内容教科です(「広い意味での」というのは、技術家庭や、保健体育などのいわゆる副教科も含めてということです)。そして、そうした内容教科を取り上げた研究を聞くにつけ、「内容教科の場合と、語学の場合はぜんぜん!?違う」という思いです。

 短く違うと思う点を列挙します。

1.語学で、内容教科でやっているような「反省」(reflection)をするのは大いに「お門違い」である。
2.語学でしなければならないことは、「反省」ではなく、「貯金」と「お金の使い方」。つまり、言葉遣いをどんどん知ってどんどん蓄えること。そして、そこそこ蓄えができたら、言葉遣いという「お金」を使ってみて、その使い方が上手になること。
3.「言葉遣いをどんどん知ってどんどん蓄える」わけですが、「一つずつ知る、覚える」というふうにするのではない。むしろ、「カイコが桑の葉をむしゃむしゃ喰う」ように、テーマという括りの下に、いろいろなサイズの言葉遣いを同時並行的にむしゃむしゃ食べてどんどん摂取する。
4.「言葉遣いという『お金』の使い方が上手になる」というのは、話して見て、あるいは書いてみて、随時に「こう話したほうが/こう書いたほうがいいよ」というフィードバックをもらってそれをまた自身の話し方や書き方に摂り入れること、です。
5.語学では、内容教科の「反省」ではなく、「言葉遣いの貯金」と「言葉遣いの使い方」をたっぷり、豊富にすること。

 ヴィゴツキーの言うZPD(最近接発達の領域)は、知性の発達、端的に言うと内容教科の教育や指導に関して言われていることです。ですから、ZPDをそのまま語学教育に適用するのは、言ってみれば「お門違い」です。さりながら!、ZPDに含まれている「自分一人でできることと、ちょっと背伸びして他者の支援を得ながらできることの距離(distance)」という見方は、語学、第二言語の学習や教育の場合に当てはめるのはOKです。

 学会に参加して、深く考えることはおもしろい!

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