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Can-doが忘れていること


 プログラム評価の世界では、ゴールに至るためのロジックモデルを作ることが大切だと言われています。

 カリキュラム開発においては、「まずゴールを設定して、そのゴールから逆に戻っていく形で一歩ずつサブゴールを明らかにして、そういう作業をした上で、スタートからゴールに至る経路を設定するのがよい」としばしば言われます。これを、カリキュラム開発におけるロジックモデルと言う場合もあります。

 「在野」の?日本語教育では、ロジックモデルの以前にゴール orientationさえありません。つまり、明確なゴール設定がない。だから、teachingは、常に、行き当たりばったりで、髪振り乱しての積極性でやっています。そして、全体のゴールも、当面のゴールもないので、「何が達成されたのか」の捉えようもありません。

 今、Can-doと言われてるものは、behavioral objectiveということで1950年代からありました(Bloom, 1956)。(今、キーコンピテンシーなどで再度注目されているtaxonomyは、Bloomが最初に提唱したこと。その後、どんどん「進化」しました。) Can-doは、「ゴールを設定することが重要だよー」と自覚を促したという貢献はありますが、「慎重に」する必要があります。

 Behavioral objectiveのときは、「人が学びや教育を通して形成した能力は直接的にパフォーマンスとして把握できるものではない。ましてや、ペーパーテストの点数で測れるものではない。だから、せめて、形成された(だろう)能力を反映する(だろう)indicator(指標)となる具体的なパフォーマンスで、教育成果を評価しようというのがbehavioral objectiveの精神です。(このindicatorという精神は、最近のビジネスにおける、KPI、KGIに反映されています。)

 そういうことなので、本当に重要なのは、Can-doを設定することではなく、Can-doを設定する際に「わたしたちが形成しようとしている能力はそもそもどのようなもので、それはどのような経路で形成されるのか」こそしっかりと考えて、indicatorとは別にその形成経路を詳細に記述するべきです。日本語教育のCan-doはその部分をまったく忘れています。

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