バフチンは、一方で制度への参入を言い、もう一方で制度からの自由・解放を言っている!(20210914)

 昨日のシンポジウム(『思考と言語の実践活動へ』(ココ出版)出版記念シンポジウム)での一つのご指摘から。
 「バフチンは、一方で制度への参入を言い、もう一方で制度からの自由・解放を言っている!」との指摘がありました。これは、何とも言い得て妙です。

 わたしの本(西口(2013)や西口(2020))や表現活動の日本語教育では、どちらかというと、ことばのジャンルに注目して、制度への参入のほうが強調されている風情があります。この部分は、なかなか微妙です。
 表現活動の日本語教育では確かに「言葉遣いを盗み取れ!」と言っています。その部分は「制度への参入」です。しかし、一方で、言葉遣いを盗み取って「自分らしい表現活動をして自身の声を獲得しよう!」と言っています。この部分は「制度からの自由・解放」です。
 言語というのは、端的に「『こんなこと』を考えているとき、あるいは、『こんなこと』を感じたときは、こんな言い回しをしてください」という社会的な約束事です。そのような意味で言うと、自由な表現活動というのは、各種の言い回し(=言葉遣い)を我が物にすること(appropriation)から始まり、そのことが「土台」を作ってくれます。ですから、この部分で「制度」というのは、思考と言葉に関する社会的な約束事、ということになります。この約束事を知らないと「物を言えない」し、この約束事を守らないとうまく受け取ってもらえません。これが「制度への参入」です。
 一方、教室で新しい言語を学んでいる人たちは、みんなそれぞれ独自の自分史や背景などをもった個性のある人たちです。ですから、特定のテーマについて「自分のことを話してください!」と言うと、当然、それぞれの人のそれぞれに個性的な話が出てきます。この部分が「制度からの自由・解放」です。そして、この場合の制度は、一つは一般的な社会の画一性で、もう一つはモデルとして提示されているナラティブ(マスターテクスト)及びそしてナラティブを構成しているあれこれの言葉遣いだ、ということになります。抽象的な言い方になりますが、一方で制度を取り込みながら(制度への参入)同時に「かけがえのない」わたしを語る(制度からの自由・解放)という制度とかけがえなさの往還運動を繰り返すのが、新しい言語を身につけるということなのだと思います。
 古いアプローチでは、「制度への参入」ばかりが扱われてきました。一方で、「派手な!(過激な!?)」言語教育実践者は、自由や解放ばかりを強調する傾向があります。適正な第二言語上達の方略としては、「制度への参入」と「制度からの自由・解放」の両方が必要です。
 捕捉ですが、わたしの本ではバフチンの多声性や異言語混交性が十分に扱われていないきらいがあります。そこは、わたしの関心や視野に「日本語が十分でなくてもいいから! 能動的に表現活動をして『社会』参加しよう!」という方向性があまりないからだと思います。それは、やはり、日本語の上達ということに「真っ当な」関心をおいているからだと思います。ただし、それは学習者たちの個性や個別性を尊重しながらの日本語の上達への関心であり、世界の多様性(=多声性?)に留意した日本語の上達への関心です。このあたりの「微妙さ(subtlety)」は、残念ながら、「派手な!(過激な!?、デリカシーのない!?)」言語教育実践者の方々にはなかなか理解をいただくことができません。

□ 友人の山本忠行さんから以下のようなコメントが届きました。

 伝統的な言い方をすれば、明治以来延々と続いている内容と形式の議論に近いと思います。国語教育でも明治初期は形式優先、暗記と模倣、型はめの指導が行われました。それがしばらくするとアメリカの教育思想の影響もあり、形式を否定し、自由が強調されました。随意選題作文がもてはやされました。しかし、自由に書け、話せと言われても、どうすればよいのかわからない子どもたちが大勢いました。すると今度は生活綴り方が登場し、身近な物事を言葉にすることに焦点が当たりましたが、これもしばらくすると行き詰まり、読書感想文が重視されるようになりました。
 読書感想文が苦手な子どもが多いからと、型を示す教師がいて人気を集めると、今度はそれを子どもの創造力や個性を否定するものだと批判する人間が出てきます。そして今は、言語技術が注目され、高校で論理国語という科目が作られました。どうも実用文が中心になるようですから、形式偏重として、これもまたすぐに批判されることになると思われます。
 言語教育、特に第二言語教育は形式を共有する部分がどうしても必要になります。何もなければ、話すことも書くこともできません。他人の表現から学び取る(盗み取る)ことが不可欠です。ところが、現在、内容重視の方向にあり、面白そうなトピックについておしゃべりしたり、書いたりしていれば、表現力が伸びるかの如き錯覚に陥っている教師がいます。これは英語も日本語も同じです。特に中級以上の教育がひどすぎます。

□ そして、わたしの忠さんへのレス

 忠さん、有益なコメント、ありがと! 「因循姑息」もやっかいですが、「革新・派手」も厄介です。健全な中道を行きましょう! 「革新・派手」ばかりが「喧伝」されているのが、日本語教育を「停滞」させている大きな要因だと思います。

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