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生活者のための日本語教育と日本語支援のあり方について ①: 日本語教育の制度化の光と影

 「生活者のための日本語教育と日本語支援のあり方について」ということで①から④までの4回シリーズで発信します。①は、いわば「前哨戦」、②が主要な主張。そして、③は、②の主張をサポートする人間学的orことば学的な根拠。最後の④は、②の主張に沿った改革案の提案となります。


 日本語教育振興法の施行(2019年6月)以来、文化庁国語課を推進母体として、日本語教育の制度化が「重要な壁」にぶつかりながらも、前進つつあります。「重要な壁」というのは、制度化が、(a)「日本語教師の資格」問題(当初の用語としては「日本語教師の国家資格化」)と、(b​)日本語のカリキュラムの「標準化」(文化庁小委員会の用語としては「日本語教育の参照枠」)という2つの柱で進行していましたが、後者は相応の「着々さ」がありつつも、前者のほうは「壁」にぶつかりました。その「壁」をステップを踏んで説明すると、

(1) 教師の資格の前に、どんな仕事をする職なのかが明らかにならねばならない。
(2) (1)のためには、その教師が従事する「教育課程」が明らかにならねばならない。
(3) (2)のためには具体的に「どういう機関」が「どのような教育課程」を提供しているのかが明らかにならねばならない。
(4) (3)のためには、機関が実施している「教育課程」を開示してもらい、それが一定の基準を満たす「教育課程」となっているかを審査して、その教育課程を実施する機関を日本語教育機関として認定しなければならない。

となります。つまり、端的に言うと、「日本語教師の資格化云々の前に、日本語教育機関の認定だ!」ということです。そして、認定には、(b​)が絡んできます。こんな事情で、現在の「焦眉の課題」は機関認定の制度作りです。
 まあ、こういうまさに現在のホットな話題などはさておくとして、そもそも日本語教育の制度化というのは一体どういうことで、それはどういう事態をもたらすのかということを考えてみたいと思います。

1.機関認定、認定日本語教師、とは

 (a)留学生向けコースを有する機関(要は日本語学校)、(b​)生活者向けコースを有する機関(国際交流協会など)などの分類で、各々一定の基準に照らし合わせて機関認定が行われます。人のほうも同じく、認定が行われます。人のほうは、(1)教育実習を履修していること、(2)試験に合格すること、が認定要件となります。
*「認定された」(これもこれから制度ができる!)養成課程を修了した人は、筆記試験の「基礎部」を免除になるでしょう。
 (a)として認定されると、日本語学校は、ようやく「学校らしく」なります。ただし、文科省的には、かわらず、認定日本語教育「機関」であって、「学校」とはなりません。そして、そこで教える認定日本語教師も「先生らしく」なります。また、地方公共団体や小中高なども、日本語教育の必要が生じた場合は、認定機関((b​)やその他)に依頼することが基本となります。そして、その認定機関では、認定日本語教師が教育に携わることになります。
 認定日本語教師の待遇の基準も示されることになるでしょう。つまり、例えば、地方公共団体はこれまでのようにボランティアグループに日本語教育を「安価で」委せてしまうことが「しにくく」なりますし、小中高も日本語指導をお願いする場合は認定日本語教師に依頼するのが基本となります。企業で外国出身の社員に日本語研修を実施する場合も、同様です。つまり、日本語教育は「認定日本語教育機関で、認定日本語教師が行う!」という方向になるわけです。これが、日本語教育の制度化という「レール敷き」です。

2.よい結果
 1のことが実現されると、日本語学校などが「学校らしく」なり、世間一般の「評価」も変化するでしょう。認定日本語教師になった人も「わたしは、(認定!)日本語教師です!」と胸を張れるようになり、待遇も改善されます。(ただし、認定日本語教師になったらすぐに「就職」できるというわけではありません。念のため。) 認定日本語教師でない人が、日本語を教えてはいけないということは一切ありません。しかし、例えば、企業などが日本語研修を外注する場合に、徐々に「認定」の学校、「認定」の教師にシフトしていくでしょう。何年かかるかわかりませんが。このあたりは、まあ、制度化のいい面でしょう。
 制度化の結果、日本語教育や日本語教師に対する社会的な認知ができ、また制度化そのものの成果もあって、全体としての日本語教育の質は向上するだろうし、認定日本語教師になればこれまでよりも「お仕事らしく」仕事ができるようになると思われます。ですので、制度化は、基本的には歓迎すべきことでしょう。
 ああ、ちなみに、大学の日本語コースやクラスは、こうした「認定」云々の話の「外」になるはずです。大学はすでに学校(教育基本法第1条)だし、学校として正式の大学の科目として日本語という科目を出しているわけなので。ただ、大学が日本語科目を担当する教員、特に非常勤講師を雇う場合に、「認定日本語教師!」を要求するようになる可能性はあります。ただ、そういう大学の「見識」をわたしは疑います。なぜなら、採用される人は大学が提供する日本語科目を担当するわけで、それは大学の科目なので、採用する非常勤講師は大学教員です。ですから、大学は見識ある自身の基準で非常勤講師の選考を行うべきです。

3.「好ましくない/うれしくない」結果
 「好ましくない/うれしくない」結果は、個人個人でいろいろあると思いますが、ぼくにとって「とってもうれしくない」のは、自由闊達で個性的な教育の企画やその実践がしにくくなることです。制度というものが日本語能力試験くらいしかなかったこれまでは、告示校となるための審査は一応ありましたが、実際にはかなり各学校や日本語研修のコースで自由にいろいろな教育ができました。そんな中には、ひじょうに優れた教育実践もありました。その一方で、「困った教育実践」もたくさんあったでしょう。
 制度化の趣旨は、後者の「困った教育実践」がないようにすることですが、それとともに個性的な優れた教育実践の「優れた個性」を受け入れることができないでしょうから、それを抑制あるいは禁止する方向になるだろうと思います。
 また、日本語の先生もある種の「画一化」が起こってくるのではないかと危惧しています。お役所の基準に合致した養成コースや養成課程が、「認定」日本語教師養成コース、「認定」日本語教師養成課程になるからです。

 日本語の先生の画一化については、このシリーズとは別に発信しようと思います。

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