「場面」というヌエ(鵺)(20211003)

 「場面」というヌエ(鵺)が今でも日本語の教師たちの界わいで生き残っているようです。
 「場面」というものについては、ぼく自身はもう40年前から「ヌエだ!」と言っています。(日本語教育には、ヌエがいっぱいいますが!) そして、1995年に書いた教授法の本で、このヌエの正体を曝くべく、取りあえず7種類に分類しています(『日本語教授法を理解する本』のpp.42−46)。しかし、その段階では、このヌエの正体を正確に曝くことはできていません。でも、最近、ようやく正体を捉えることができたような…。

 「場面」を考えるために、なぜか!? 表現活動をめぐって考えたいと思います。
 自分のことについてあれこれおしゃべりをする自己表現活動にしても、ちょっとしたテーマについておしゃべりをするテーマの表現活動にしても、表現活動というのは基本的に、場面フリー(いつでもどこでもできる!)です。つまり、「わたし」と特定の相手、あるいは「わたし」と「最近お友だちになった人一般」という「人」がいるということだけが表現活動の成立条件で、カフェであろうと、昼休みであろうと、町を歩きながらであろうと、廊下であろうと、教室の中であろうと、仕事の合間であろうと、授業中であろうと、場所や活動状況など関係なく、いつでもどこでも表現活動という言語活動はできます。(別の言い方をすると、表現活動の日本語力は、ポータブルで「いつでもどこでも」使える!ということになります。) つまり、表現活動は、そもそも「場面」の上での言語活動ではないことになります。
 「場面」というヌエの正体を曝くカギは、この「場面の上での」ということです。手短に言ってしまうと、「場面」というヌエがはびこる根本には、言語表現は「場面」の条件で決まる/導き出す/引き出すことができるという日本語の先生たちに共通の考え方/信念があります。「場面」の条件というのは、もう一種類のヌエである「文脈」を形成することになります。そして、この「場面」と「文脈」の考え方/信念の下に、文型・文法事項などを「場面」の中で導入して理解させたり、パターン化された「場面」の中で当該の文型・文法事項を含む練習をさせたり、学習者を特定の「場面」に誘導することで教師が期待する発話を引きだそう、などとしているわけです。これ、端的にいうと、「こんなとき(こんな「場面」?「文脈」?で)は、こんな言い方/話し方をする」ということですねえ。そうすると、日本語を教えるというのは、「「場面」/「文脈」と言語表現の結びつきを教える」ということになるでしょうか。
 場面・文脈信奉者は、場面・文脈のない言語活動なんて考えられません。場面・文脈のない言語活動があったり、そんなものが重要だと言われると、これまで守ってきた!?「日本語を教えるための土台」、「日本語教師の牙城」が崩れてしまいます。(ああ、これ、より正確には、「直接法で日本語を教えるための土台」、「直接法の日本語教師の牙城」ですね。) しかし、…。

 よく考えてみてください。疑問を3つ。

(1) 場面・文脈と言語表現の結びつきの指導を、ただ個々の文型・文法事項の指導のために(のみ)やっていませんか。
(2) 場面・文脈と言語表現の結びつきの知識を積み上げていく(=足し算していく)ことで、日本語で基礎的な言語活動に従事することができるようになるというねらいが達成できるできるでしょうか。
(3) 場面・文脈と言語表現の結びつきの知識を身につけるというのは、「こんなときにはこういうふうに話す」というロボットを作る!?

 こんなことを考えると、場面とか文脈は、何だか日本語を教えるということを何とか!成り立たせるための方便のような気がしてきます。場面のヌエと文脈のヌエは、「オレたちは重要なんだと!」引き続き声高にカーカーと鳴き続けるだろうと思いますが。

 場面や文脈をめぐって、留意しなければならない点は、場面も文脈も、その場面やその文脈という形で特定の枠を作って、その枠の外にある世界から孤立し、没交渉になることです。そうなると、場面や文脈での練習と言って一見本当の言語活動(コミュニケーション?)っぽい装いをしながら、実は、枠の中での言語の操作の練習をしているだけとなりがちなことです。
 表現活動を中心とした基礎日本語教育は、どうもそういう見方や考え方、そういう指導方法、そういう言語観とはまったく別世界のようです。現在進行中の自己表現活動は、今ここにいる「わたし」という広範な現実を有する存在が、目下のテーマをめぐって、広範に広がる「わたし」の現実の一部を開示しているわけです。そこには、設定され、言語活動(話すこと)を指定するような「枠」はありません。あえて言うと、テーマが「仮の枠」ではありますが、その枠は「広範な現実を汲み出す」ための枠です。

 少し「しつこい」ですが、場面的な指導法、文脈的な指導法をめぐるもう一つの疑問。
 自己表現の日本語教育で表現活動ができるようのなった学生は、(a)「友だちを映画に誘う」や(b​)「先生に推薦状をお願いする」などの会話を上手に運営することはできないでしょう。ただし、そもそも、(a)や(b​)などの「場面」に疑問があります。
 (a)は「その人となぜ友だちになれたの?」、「友だちになるプロセスでの使用言語は日本語? 英語?」などの疑問が出てきます。また、(b​)については、実は日本語で会話する必要はなく、「応募している事柄を説明している書類と推薦状の用紙(ファイル)を先生に見せたらそれでorそのほうが用が足せる!」という「不要論」が出てきそうです。そして、この(a)に対する疑問や、(b​)に対する「不要論」は実は何を示しているかというと、そういう練習は、「実用的なコミュニケーションを練習している!」と言いつつ、有効な日本語指導に「事欠いて」、日本語の授業をするためのネタとして実用的なコミュニケーションの真似事をしているのではないかと、思わせます。わたし自身も、そういう練習をしてみたことがずっと昔にありましたが、すぐにやめました。それをやっても、ガッツリした日本語力の養成にあまり資することがないと感じたからです。
 最後に重要なキーワードが出てきました。表現活動の日本語教育で育成をめざしているのは、文型・文法事項と語彙を使って正しい文を作る能力ではなく、またそれの延長としての片々たる実用的なコミュニケーション力ではなく、むしろ文型・文法事項や語彙の知識をもその内に蔵したガッツリした表現活動力としての日本語力です。「実際の(≒実用的な」言語活動の指導は、基本的に、基礎的ながらガッツリした表現活動力としての日本語力を育成してからが適当なタイミングだと思います。

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