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意識の根本的な捉え方の問題

イントロダクション
 これまでの意識の捉え方は、意識を静的に捉えようとする傾向が強かったように思います。一方で、意識を動的に捉える視点もありましたが、そうした議論では、割合あっさりと「立ち現れ続け更新し続ける意識の流れ」と言ってしまう傾向があったように思います。
 本記事では、上の両者のいずれでもない、動的ながら一定程度実体の裏づけを得ながら意識を捉える方法を提示できればと思っています。

1.荷造りの意識とことば学的な意識
 長年勤めた大学を離れて他所に赴任するために、次の日からわたしは研究室の引っ越しの荷造りをする予定でした。今朝方、目が覚めて、研究室の引っ越しの荷造りの要領を少しうつらうつらしながら考えていました。そして、荷造りの要領を考えている最中に、今ここにこれから書くような思考も「侵入」してきました。ここでは、前者を荷造りの意識、後者をことば学的な意識と呼びます。

2.イメージと意識① — 荷造りの意識
 わたしは間違いなく荷造りのことを考えていました。そして、その間は、わたし(=わたしの意識!?)は、その考えに「占領」されていました。そして、わたしが荷造りのことを考えているときは、引っ越し準備で雑然としている研究室のイメージ、研究室のあれこれの書棚のイメージ、各棚にある本の種類のイメージ、書棚にある雑誌のイメージとそれに相関するそれらを廃棄するかどうか迷っているわたしイメージ、部屋の大テーブルの上に廃棄する資料を積み上げるイメージ、大テーブルとその上でビニールひもで廃棄する資料等を縛るイメージ、荷造り手伝うと言ってくれている学生のイメージ、その学生が廃棄する資料等を縛るイメージなどが、時には一連の作業の流れとして、そして時には無秩序に交錯するイメージとして、意識に立ち現れました。そして、それらのイメージは、時にかなり鮮明で、そして多くの場合断片的であったりぼんやりしていたりしました。
 そのようなイメージの立ち現れが、わたしが荷造りのことを考えているということの実態でしょう。つまり、荷造りの意識というのは、そうしたイメージをノエシス(思考や意識の仕方)としてあれこれの意識を生み出し続ける意識の運動だったように思われます。そして、ここに言う「あれこれの意識」というのがノエマ(思考や意識の内容)となります。すなわち、この場合の意識の運動というのは、捉え得る実体としてはイメージであり、中身としてはそのイメージの背後で捉えがたい形でうごめきのように息づいている意識の動きやその産物であると考えられます。そして、一般に意識と呼ばれているものは、絶えることなく現れるそうした実体とうごめきだと見られます。

3.イメージと意識② — ことば学的な意識
 きわめて興味深いのは、上の荷造りの意識が運動している最中に、「あっ、今のいろいろなイメージ、これ、思考/意識の実態!」、「ああ、思考/意識ってこういうこと!」、「こういう断片的なイメージ! それが実体! ノエシス!」、「そして、その背後に意識の中身が!」というような内言が、荷造りの意識に代わって突然わたしの意識を「占拠」したことです。そのような形で、突然ことば学的な意識が始まったわけです。そして、次の瞬間に、「あれっ? 荷造りの意識、消えた!」と、また突然、言わばメタ意識的な思考/意識が立ち現れました。しかし、次の瞬間には、ことば学的な意識がまた始まって、「ああ、こんな動きが意識なんだ!」、「断片的なイメージ、映像イメージでも、ことば的イメージでも!」などの内言が立ち現れました。わたしにおけることば学的な意識はこうした内言をノエシスとしてそれと相関して存在していました。こうしたことば的イメージが意識のナヴィゲーターをしていたと言ってもいいでしょう。
 そして、最後に、「起きたらすぐメモしなきゃ!」となり、そのようないきさつで今この記事(メモ)を書いています。

4.ことば学的な意識
 「ああ、こんな動きが意識なんだ!」、「断片的なイメージ、映像イメージでも、ことば的イメージでも!」などのことば的イメージと相関して何があるのでしょうか。まずは、前者イメージは、「ああ、こんな気まぐれな動きが意識の運動なんだ!」というふうに内言を開くことができるでしょう。そして、この中の「意識の運動(なんだ!)」ということば的イメージは、「意識の運動」という対象を捕捉したという宣言あるいはしるしになっています。それに続く「断片的なイメージ、映像イメージでも、ことば的イメージでも!」とのことば的イメージは、「断片的なイメージがノエシスになってるんだ。そして、それは、荷造りの意識の場合のように映像イメージでもいいし、こうして考えている場合のようにことば的イメージでもいい。そのように意識には、ごく断片的であれ何らかの寄す処としてのイメージが必要で、それに相関する形で意識が存在するんだ!」などに開くことができます。さらに言うと、こうして今わたしが書いていることばたちのすべては、「ああ、こんな気まぐれな動きが意識の運動なんだ!」、「断片的なイメージ、映像イメージでも、ことば的イメージでも!」という内言の拡充的展開だと見ることができます。

5.意識に「支配」される「わたし」
 このように「わたし」はいつも、鮮明にであれぼんやりとであれ、意識に支配されます。そして、意識自体、捉えどころのないそれ自体の原理でさまざまな種類の意識を、多くの場合気まぐれに、生み出し続けます。さらに、意識は、たとえわずかな片鱗であろうと、必ずイメージとしてその姿を現します。何の映像イメージもことば的イメージもない意識というのは虚構でしょう。
 絶えることのないイメージの立ち現れが捉え得る意識の実体です。しかし、意識の実態は、しばしば巨大な実態を有しながら、イメージと相関する形でイメージの背後に隠在的に存在しています。

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