教えるという授業観(teaching as instruction)と、言語活動という授業観(teaching as interaction)

 短く書きます。
 優れた教育実践を創造するために根源的に重要な視点として、teaching as instruction(教えることとしての授業)vs.teaching as interaction(言語活動としての授業)というのがあります。これはnote(https://note.com/koichinishi/n/na049d2311a90)でも言及したように、Ellisが1980年の本(Instructed second language acquisition)で言っていることです。ただし、Ellisは研究的な観点から論じています。ここでは、教育的な観点から論じます。

 Teaching as instructionというのは、授業とは「何かを教える/何かを学ばせる」機会だという授業観です。語彙を教える/学ばせる、漢字を教える/学ばせる、導入・練習・応用練習(PPP、presentation-practice-production)の手続きで文型・文法事項を指導するなどの見方がteaching as instructionの授業観となります。これを、教えるという授業観と呼びましょう。
 もう一つのteaching as interactionは、授業とは学習者に言語活動に従事させる機会を提供するものだという授業観です。言語活動という授業観と呼びましょう。そこには、2つの見方が込められています。一つは、学習者は「何かを学ぶ」(teaching as instruction)一方で常に言語活動に従事することで言語を上達させている(マイルド・バージョンの言語活動という授業観)、あるいは学習者は「何かを学ぶ」よりもむしろ言語活動状況が豊かに与えられて言語活動に豊富に従事してこそ言語を上達させる(ストロング・バージョンの言語活動という授業観)という見解です。
 そして、teaching as interactionのもう一つの見方は、何かを教えるつもりで授業をしていても、実際にはteaching as interactionに(も)なっていることがしばしばあるという視点です。指示の言葉として目標言語で話したり、何かを教えるつもりの授業の脈絡で思わず教師と学習者あるいは学習者と学習者がごく自然なやり取りを交わしたりした場面では、teaching as instructionの脈絡でありながらteaching as interactionが起こっています。教師のちょっとした独り言や学習者がわかるように調整された雑談なども、teaching as interactionの機会の例です。教師がさもおしゃべりをしているような感じで実はこれから学習する文型・文法事項や語彙を潜り込ませている場合などは、teaching as interactionとteaching as instructionが融合している状況となります。

 言語教育者として、より具体的には、教育企画者として、具体的な教育プログラムを計画するコーディネータとして、そして実際に授業を実施する教師として、あなたはどの授業観に立っていますか。あるいは、今後どの授業観で授業実践をしようと思いますか。

 自覚の程度はいろいろですが、従来の教育方法の大勢は教えるという授業観に立っています。言語活動という授業観のことは考えたことがないという人もいるかもしれません。
 一方、言語活動という授業観は、コミュニカティブ・アプローチの授業観と一見重複するように思われます。しかし、ここで言語活動と言っているのは、教室の外の場面の言語活動を教室の中で模擬的にやってみるような「真似っこ的な言語活動」のことではありません。それは、teaching as instructionの延長です。また、適切なテーマを与えて学習者にペアやグループで話をする機会を与えるというような産出活動だけがteaching as interactionなのではありません。note(https://note.com/koichinishi/n/na049d2311a90)でも言ったように、受容的な活動をしていても能動的に言語活動に従事しているという状況は普通にあるわけで、そういう言語活動に従事することの言語上達への貢献を軽視するのは適当ではないでしょう。

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