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第二次世界大戦の爆撃機B-29に乗って感じたこと【後編】

こんにちは、ミネソタより、コーイチがお届けします。
前回は日本本土大空襲やB-29の装備に関してお話ししていました。
今回は後編として原爆の投下と、僕が実際に搭乗した体験をお話ししたいと思います。

原爆投下

1940年代初頭、アメリカ・イギリス・カナダによる、かの有名なマンハッタン計画で原子爆弾の開発が急ピッチで行われました。
そして開発された世界初の原子爆弾による実戦の空爆が行われるに先立ち、原爆の模擬爆弾として使われたパンプキン爆弾をご存知でしょうか。

原爆投下の候補地だった京都や小倉、名古屋などに落とされていた爆弾で、原爆の投下練習をするため、原爆そっくりのずんぐりとしたフォルムで黄色に塗装されていたために”カボチャのようだ”ということでパンプキン爆弾と呼ばれていたものです。

僕は名古屋に住んでいるときに知ったのですが、八事日赤病院の交差点のところにも落とされています(ローカルな話ですみません。記憶が曖昧ですが、小さな石碑かお地蔵さんが駐車場の影にあったような…知ってる方いたら情報求む…。何気ない道端のお地蔵さんなんかも、何かこうした歴史があるのかな、と気付かせてくれる話です。)。

そうして候補地の中から、実際に原子爆弾は投下されてしまいました。
8月6日に広島市(B-29 エノラ・ゲイからウラン型原子爆弾「リトルボーイ」投下)
8月9日に長崎市(B-29 ボックス・カーからプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」投下)

着陸態勢のB-29

B-29は原爆投下後、速やかに155°の急旋回と急加速にて回避行動をとるとされていました。これは攻撃部隊が強力な爆風に巻き込まれることを避けるためですが、原爆投下任務において、爆撃機の乗員の命も保障されていなかったようです。

広島と長崎を合わせて推定15万人から24万6千人の命が奪われました。これを大量殺戮と呼ばずして何と呼ぶのでしょう。今まさに世界は核爆弾が使用される可能性が高まっており非常に恐ろしいですが、二度と繰り返してはいけない行いであることは言うまでも無いでしょう。原爆の恐ろしさについては皆さんご存知の通りと思います。

そして1945年8月15日、終戦を迎えることになります。

B-29に乗って空から地上を眺めた

会場ではお土産物も売られている。

話は現代に戻ります。先人のおかげで今の日本とアメリカは平和です。日本人からすると恐怖の対象であるB-29ですが、一方で航空機としては興味深く当時最先端の技術の結晶は一見する価値のあるものです。そんな複雑な思いがありながら、B-29に日本人の自分が乗るということは、その平和を体現するかのような気分です。

機体の説明を受ける体験飛行参加者

このB-29の製造は1945年。飛行機としてはかなり高齢なもの。ある意味運命共同体ということで、一緒に乗り込む5人でちょっとした自己紹介をしつつ、これからのフライトに気持ちが高ぶる。僕以外はみな白人のアメリカ人で、リメンバーパールハーバーとか言われたら怖いなと、ちょっと緊張しましたが、でもみんな気さくに話をしてくれました。(そして飛行機を降りた後で少しお話しさせてもらったキャプテンも、とても優しくしてくれました。)

僕が乗ったのは機体後部のガンナーシートという部分です。爆弾を格納する部屋より後部にあり、後方の機銃を担当する乗組員が配置される場所です。
まずはブリーフィングで機内での注意事項についてインストラクターからいくつか説明を受け、いよいよエンジンが始動。


エンジンの音は迫力満点。当時使用されていたエンジンではありませんが、このB-29のためにカスタムメイドされて2010年に搭載されたエンジンです。(B-29機内で録音。ちゃんとマイク等で録音したわけではないので、あんまり変化のない音に録れていて残念ですが…)

二人の乗組員が左右2基ずつエンジンの様子をそれぞれ確認して、異常なしのサイン。

僕の座っていた位置からは、窓が見えないので外が見えませんでした。ものすごい音を立てながら飛び立つ機体。騒音と振動で、いつ飛び上がったのかもわからないほどです。
安定飛行に入ると、シートベルトを外して機内を見学。

ものすごい風圧の中、翼と地平線を見るため顔を出す

開けておいてくれたハッチから外を眺める。初めて体感する、顔が歪むほどの飛行機の風圧。
全てが特別な時間に感じられました。


生きて故郷の土を踏みたい。

ミネソタのコーン畑が広がる平らな大地は、日本とは全然違う風景です。きっと、アメリカからはるばるアジアまでやってきたB-29乗組員たちも、全く逆の立場で、全く同じように思っていたのではないでしょうか。

どこまでも続くミネソタの大地

アメリカにやってきて初めて空から見るミネソタの大地です。僕が飛んできた時は夜でしたし、パンデミックで飛行機には渡米以来一度も乗れていません。

ミネソタにはこんなにも雄大な大地が広がっているんだ、と改めて実感したと同時に、アメリカ人(特にミネソタ出身の人)にとっては、きっとこれが懐かしい風景なんだろうなと思いました。僕が懐かしく感じる空はどこだろう、それは日本の空に違いありません。

渡米してからというもの、周りの仲間たちに恵まれていて、ご飯も美味しくて気候もそれなりに慣れました。こっちで成し遂げたい研究という仕事もある。だから今までは全然日本に帰りたいと思ったことはありませんでした。

でもこの空を見て、もう一度故郷の、日本を空から見たいなと強く思ったんです。そして、生きて故郷の土をもう一回踏みたいと、そう思いました。
単に帰りたいとか懐かしくなったとかそういうのとも違い、言葉に表すのはすごく難しいのですが、米粒のような小ささになって見える車やポツリポツリと建つ家を見ていると、それぞれに人生やドラマがあると思えて、自分が育ったところの空気感を、もう一度味わいたくなったんです。

飛行中に小窓からも地上を眺めることができる

きっとこのB-29に乗って出撃したアメリカ人も似た感覚があったんじゃないかなと思ったんですよね。アメリカ人だけじゃなくて、特攻隊として空に散っていってしまった日本人パイロットや、船と共に海に沈んでしまった船乗りたち、そして命を奪われて空に登っていった方達。みんな、故郷の土をもう一度踏みたいと思っていたはずだと…。

ジブリの名作「紅の豚」を見たことがある方も多いと思います。主人公が三途の川を渡りかけるときに”空に登っていく飛行機のシーン”が僕は大好きなのですが、このB-29に乗っている間、何かそれに似たような、空の青さに溶けていくような気持ちがありました。

正義の反対はまた別の正義。僕らはどう向き合うか

第2次世界大戦時におけるB-29の損失数は、アメリカによる調査結果が報告されています。3万回以上の出撃数に対して、およそ500機のB-29が作戦中に墜落や撃墜で損失したとされています(報告書によって諸説あり)。1機のB-29の乗組員は11人です。アメリカ側の損失も小さくないものです。

戦争のあり方は刻々と変わり続けています。遠隔操作した無人機で人の命を奪うこともあれば、インターネットという物質ではない世界の支配も起こります。そして実はボタン一つで核戦争への扉が開かれてしまう、という恐ろしさの渦中にわたしたちは生きているのです。普通に生活しているとそれを実感しないだけなのです。

僕は改めてこの飛行機に乗ってそれを実感しましたし、同時に平和のありがたさを痛感しました。

「正義の反対は悪ではなく、また別の正義」という言葉がありますが、戦争はお互いに相手を悪だと思いながらも自分達の正義や故郷を想う気持ちで戦っています。ときには悪だとすら思っていないかもしれません。目の前の人、空から見える街に住んでいる人はなんら自分らとは違いない人間なんです。当事者たちがお互いをどう思っているかも関係なく、戦争になると殺し合いになってしまう。そんな理不尽で悲しいことはないでしょう。そして、今まさにこの世界でもそれは続いているのです。故郷を奪い、奪われる争いは終わっていません。

では僕らにできることは何でしょうか。それは人の数だけ答えがあります。語り継ぐこと、いつも歴史から学ぶ姿勢を保つこと、英語を覚えてグローバルに働くこと、寄付をすること、自衛隊として国を守る、ジャーナリストとして戦地に向かう、NPOとして関わっていく、輸出用の加工食品を作る、日本で経済を回す、いろんなやり方があるでしょう。
今大事なことは、「一つの答えにはならない難問に、どう向き合って試行錯誤したか」だと思っています。

僕は今の医学研究の仕事をしばらく頑張ります。
誇らしい気持ちでまた故郷の地に降り立てるように。


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