見出し画像

令和は第2のルネッサンス

中世ローマ時代はアフリカから大量の奴隷が輸入され、貴族階級の2つの重要な時間を奪った。一つは仕事。2つ目は家事。

当時この2つの事柄に1日の時間を費やしていた人間が、いきなりそれを奴隷に代用させることによって、彼らに「余暇」が生まれた。

その余暇の過ごし方はもちろん誰にも教わることなく、彼らはその時間で「絵を描く」ことや「彫刻を作る」、または「作曲する」など芸術活動と、なぜこの命はあるのだろうか?なぜ人は生きるのだろうか?という哲学を始めた。

この哲学は初め問答から始まり、弁証法などのいわゆるディベートなどが生まれる。その活動にははっきりとした脳みその活性が必要なので、カフェインという物質を飲みながら哲学を行う場所、として世界初のカフェがフランスに誕生する。

そして「しないといけないこと(仕事と家事)」から解放された貴族たちは生きる意味を求め哲学をし、さらに自分という存在の証明のために芸術活動を行うようになる。

これは振り返ると現代の令和時代にものすごく似ている構造で、さらにこの類似性が強まると思う。

つまり、
①生活保護などのベーシックインカムの導入による仕事の不必要性の高まり
②AIが内蔵されたWEBサービスや家電の発達による家事の時短化

が起こり、労働せずとも生きていくことが可能になる社会が到来しつつある。その結果、生きる意味を哲学してこなかった若者が迷い、自殺率は年々増加している。

これは物質的豊かさを追い求めた結果、資本主義社会での効率的人材の輩出だけにフォーカスをしたロボット量産システムである教育システムの落とし穴である。国社数理英を中心とした知力(暗記力)を高め、すでにある正解を素早く出すことに特化する教育しかしてなかったため、徳育を高める修身科目が非常に少なく、志、信念、自分の社会に対しての見方などが形成されないまま、他者評価(資本主義評価軸)の中で高得点を出せばいいと思い込んできた薄っぺらい人材が大量に輩出されてしまったということ。

彼らのゴールは資本主義社会での to betterを目指すことなので、IPOもしくはイグジットをして10億程度の資産を築いてしまえば人生のそのさきがないのだ。

利益思考、効率思考、安定経営、社会的最上位承認地位を満たしてしまった彼らの行き着く先が「ロスト パーパス」というなぜ生きてるのかわからないという境地。

これは何も成功者特有のものではなく、要素としては上記の2点が満たされれば誰でも起こるもの。

故に、今の時代だからこそもう一度哲学や古典文学などへの需要とそこに対しての救いの手が、評価経済学の中でyoutubeの再生数に見て取れるというわけだ。

僕個人としては「古典、哲学を話し合える仲間」と「自然の中で生きる環境」の2つが解決策の糸口となるように思う。

またそれについては後日書いてみたいと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?