恋愛のルーツから見えてくる、人が恋愛をする意味

恋愛の世界で仕事をしてみると、恋愛に関わっている人たちと繋がる。

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個性豊かなジャンルの方と出会い、多様な観点を知った。
今さらかもしれないが、恋愛の世界はかなり奥が深い。
これが答えだ! という言い方をする人もいる。

ただ、恋愛に答えは一生見い出せないであろうと考える。

恋愛とは何なのか?
ルーツから考察してみた。


恋愛はなぜ生まれたのか

生物学観点から見てみると、子孫を残すのに恋愛は遠回りしているように見える。恋愛は複雑で、昨今のニュースを見ていても、恋愛が人の人生を狂わせているのは明らかだ。

それでは、人間はなぜ恋愛を生んだのか。

日本の恋愛の歴史は浅いので、まずは古代ギリシャの歴史を見てみた。一説では、恋愛の起源は女がお金で自分の体を売る「娼婦」の成立にあるとされる。

要は、お金のやりとりで、男と女が対等な立場で向かい合える場所がはじめて生じたとのことだ。人類の歴史は、「男」が主人となり、「女」を隷属させる社会で成り立っていた。
娼婦が存在できる場所こそ、男女が同等の立場で向かい合える場所となった。「恋愛」という概念は、娼婦たちの間から生まれてきたとのことだ。

これらを唱えているのは実は女性で、小説家の水村美苗さんだ。
水村さんはある対談でこのように語っている。

人類史の大半において、女性は、(文化人類学者の)レヴィ=ストロースが言っていたように、男性中心的な共同体(= 村とか部族)の中で、他の共同体との友好関係を保つための交換価値としてしか見なされてこなかった。つまり制度として公認された “婚姻” の歴史というのは、女性を交換価値としてしか考えなかった共同体の歴史を物語っているに過ぎない。レヴィ=ストロースは、あたかもそれが人類一般の法則であるかのように語ったが、それは自己完結型の共同体内で当てはまる現象でしかない。だから、男が権力を握って君臨している共同体の中で、女が『弱者』の立場から解放されるには、女はそのような共同体の<外>に出るしかなかった男性に支配される共同体の中で、男女が対等な立場になるにはどうすれば良いか? という問いを立てた人がいた。そして、手段として貨幣と、女性としての価値を交換するという契約を提案した。

すごいことを考える人がいたものだ。

娼婦を、「男が女を金で支配する」制度だと決めつける人がほとんどだが、事実は逆だった。

女は娼婦になることで、「男からの全面的な支配」から、「金でしか支配されない存在」に昇格したのだ。

そして、女に選択の自由が生まれた。どれだけ金を持ってこようが、女が気に入らなければ売らなければよい。

逆に、気に入った男がいれば、金をもらわずとも奉仕した。そして、女だけでなく男も共同体の外に出る必要性があった。この一連の流れが、恋愛の起源とされている。

水村さんは次のようにも言っている。

市場においては、娼婦が『売る立場』になるわけだが、商談が成立するには、客も『売り=買い』の場に立ち会わなければならない。『いったいこの女にいくら金を積めばいいのだろう』というところから、逆に『金で買えない愛情』をやりとりするものとして恋愛が規定されてきた。『売り=買い』の場というのは、『買う立場』にいる人間の持っている貨幣の価値を危うくする場でもある。金をいくら積んだところで、相手が気に入ってくれなければ仕方ない。さぁどうする? と考えた時に、愛情について考えることとなる。

だんだんと恋愛らしくなってきた。
1000年以上経った今でも、六本木で女性に声をかけ、お金と権力によって口説こうとする人がいる。人類は1000年前から変わっていないようだ。きっと、一種の刺激物として恋愛を捉える人が多いのであろう。


婚姻と恋愛はちがう

結婚と恋愛をいっしょにする人がいる。
「恋愛という契約が成立したら結婚」という流れが自然でないことは理解いただけると思う。

人間の行動を左右する根本的な考え方の体系を、イデオロギーと呼ぶ。中世ヨーロッパでは、騎士の行動の基準となるイデオロギーは恋愛だった。

その中身というのが、女性に対して大いなる愛を伝える高貴な姿こそ、騎士としての自分を支える柱となった。

騎士たちが仕える共同体の外に恋愛を求め、存在意義を見出した。
貴婦人たちのために戦いに挑み、命をかける姿こそアイデンティティとなった。たくさんの人のために命をかけている。

ひとりの人と愛し合ったとしても、他の人との関係を持つ不倫文化だ。不倫とはいえ肉体関係を持たないことから、高貴な愛としての基盤がここで生まれた。

当時特殊とまでいわれた純愛というものである。婚姻という共同体ルールとは異なる、男女の結びつきの概念としての恋愛は、ここで確立される。当時のこの一連の恋愛は不倫が前提であることから、悲恋とも呼ばれた。

シェークスピアの作品として有名な「ロミオとジュリエット」などに見られる、恋愛は悲愛に終わることが定番化された。ロミオとジュリエットは、2つの対立する共同体から抜け出した2人が禁じられた恋に落ちる代表作だ。恋愛は、婚姻という共同体を破る時に発生するということがよくわかるストーリーである。


恋愛の存在価値とは?

恋愛が共同体を滅ぼすためのものだとすると、益々なんのために存在するのかがわからなくなってくる。

恋愛が、「家族」という共同体にまで発展していけば、それは、「国家」という共同体の利害と対峙することもありうる。

一連の説から考えれば、婚姻という共同体となった場合、そこに恋愛が存在するとなると滅ぶしかない。

そのような死に隣接した考えを古代ヨーロッパでは持っていたようだ。共同体の中では死と恋愛が結びつくことはタブーとし、「共同体のために個人が死ぬ」というイデオロギーは奨励された。

さすがに死ぬことは考えられずとも、共同体から抜け出し恋に落ちるというシチュエーションそのものにドキドキする人はいるであろう。危ない橋を渡るというときめき感を、当時の人々は持っていたと考えられている。ときめき感の恐ろしさを、感じているだろうか。


恋愛のパワーは国をも滅ぼす

恋愛は、”男女平等”をもたらすもの。
その”ときめき感”のエネルギーはすさまじく、一国のヒエラルキー(ピラミッド型の階層組織)を脅かすほどである。

帝国の王であっても、女が首を横に振れば、権力者の座から崩れ落ちる。ある意味、女に精神支配をされてしまうのだ。

中国の唐王朝崩壊のきっかけをつくったのは、玄宗皇帝の寵愛をほしいままにした楊貴妃であったのはあまりに有名である。

また、ローマ時代に、オクタヴィアヌスと覇を争ったアントニウスを破滅させたのはクレオパトラであった。男はまんまと、立場を危うくさせられてしまうのだ。

恋愛の力は、国をも滅ぼしてしまう。

うかつに手を出しては、火傷することもあるということだ。


恋愛がもたらすもの

哲学者の東浩紀さんは、「弱いつながり」という本の中で、以下のように言っている。

(男と女が)一晩一緒に過ごしたという関係性が、(その人の)親子や同僚といった強い絆をやすやすと超えてしまうことがある。社会的に大成功を収めていた人が性犯罪で破滅することがあるかと思えば、まったくの敗北者が権力者(との性の結びつきで)政治を左右するようなパートナーになったりする。もし人間に性欲がなかったら、階級は今よりもはるかに固定されていたことだろう。人は性欲があるからこそ、本来ならば話もしなかったような人に話しかけたり、交流を持ったりしてしまう。……人間は、目の前で異性に誘惑されれば思わず同衾してしまう、そういう弱い生き物であり、だからこそ、自分の限界を超えることができる。そういう非合理性が、人間関係のダイナミズムを生み出している。

最後の「限界を超える」という言葉に思わず驚いた。

人間に性欲がなかったら、どんな世界になっていたことか。

そもそも人間に性欲がなければ、冒頭の、勇気ある女性の提案は受け入れられなかった。

そしてひとつの真理が見えてくる。

恋愛は弱さをさらけだしてこそ、自分の限界を超えられるのだ。

現代人を見ていると、性欲のみが先走り「1000年前と変わらないのか」とうんざりしてしまうこともある。

出会いの場を提供してみると特にわかるが、男性は女性と寝たくて仕方ないらしい。

僕は、恋愛が持つパワーをもっとうまく作用させる力が人間にはあると信じている。

ただ肉体関係をもつ、ただ騎士道(純愛)を振りかざす、ただ政略結婚をする、そのようなものに留めておくのはもったいない。

恋愛が破滅をもたらすのか、パワーをもたらすのかは自分次第なのである。

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