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【座談会】文藝春秋三十年の思ひ出《前編》

●はじめに●
 今回は文藝春秋の思い出を振り返る座談会の収録(前編)となります。
 直木先生を始めとした様々な文士の皆様が出てくる内容の深いものとなる為、今回収めさせて頂くことに致しました。

 なるべく当時のままに収録しておりますが、一部読みやすさを優先し現在の漢字等にしているところがございます。また、同理由で改行などを入れているところがありますこと、ご了承くださいませ。
 また本来ならば注釈等を要する箇所もあるかと思いますが、今回は全体を打ち込むことに専念させて頂きました。ご容赦頂ければ幸いです。


●座談会・文藝春秋三十年の思ひ出●
(昭和二十七年四月一日発行『文藝春秋』創刊三十年記念號より)
出席者
小林秀雄
吉川英治
川端康成
宇野浩二
永井龍男
佐佐木茂索
久米正雄(病欠)


1)創刊號は金十銭也


記者「本日は御多用のところ、まことにありがたうございました。本年は文藝春秋の創刊三十年に当たりますので、ゆかりの方々に集つていただいて、いろいろと思ひ出話を伺ひたいと思ひます。けふは久米正雄氏が御病気で、お見えにならないのが残念ですが、先づ、創刊当時のことから初めていただきませうか」
小林「創刊號は十銭でしたね」
佐佐木「定価十銭で三千部刷つたんです」
吉川「僕はたしか古本屋でね、第五號を見て、『前のあるか』つて言つたら『ある』つていふんで、五冊一緒に買つてね、それから続いて見るやうになつたな」
川端「文藝春秋同人の名は二號から出しましたけれども、創刊から同人はあつたんですね。創刊の時に、佐々木味津三とか今東光とか、僕らも相談がありました。始めは二十八頁だつた」
佐佐木「あつたんだけれども、二號にハツキリ書いてるわけだ。『こんど手伝ってもらふつもりで同人をきめた。しかし自分の弟子でもなければ、家来でもない。或る人が……』この或る人つていうのは僕なんだけどね(笑声)『或る人が、文藝春秋に書くと菊池の弟子みたいに思はれるから厭だと言つてゐたから、このことは断つておく』と書いてね、二號からハツキリ同人を発表してるわけだ。それで翌年の半ば頃に、その同人を解散したのは、つまり同人雑誌的な枠内にゐられなくなつたわけだ。さうしてその時分から菅忠雄が編集にあたつたんです」
川端「同人を解散したのは、いはゆる『金山御殿』の雑司ヶ谷に移つてから……。若い同人の大部分が別に『文藝時代』を創刊して、それも一つの機会になつたでせうね。同人全部集つて編集を相談するつていふやうなことはなかつたですね。もちろん手伝つてた人はありますね。始めの頃の編集は、永井君、誰でしたつけね」
永井「私はその頃はまだ知らないんです」
川端「菅君より中河興一君のほうが早かつたかな」
佐佐木「中河君のはうが早かつた」
吉川「あの随筆欄の四段組み、あれは誰の創案です?」
川端「さういふことは全部菊池さんの創案です」
小林「何しろ十銭ていふんで驚いたんだよ。(笑声)僕は初めから買つたもの。それから裏を見たら合計報告がみんな出てたんで驚いた」
佐佐木「さう、紙代が七十圓とか印刷代がいくらとか、こまかく書いてあつた。とにかく十銭で三千部、定価で買つたつて合計三百圓にしか過ぎない」
記者「原稿料は払つたんですか」
川端「僕は初めから貰ひましたね。いくらかは忘れましたがね。お小遣ひ呉れるつもりで呉れたんでせう」
吉川「発行所はどこだつたの?」
佐佐木「小石川林町、菊池寛の家。発売元は春陽堂でね、発行は文藝春秋社。この看板は、初めから出してた。『眞珠夫人』を書いたのが大正八年か九年でね、そして菊池寛全集が、文藝春秋を創刊する前に、もう四冊なり五冊なり出てたね。それに日日新聞の客員に芥川龍之介と二人でなつてたから、小遣ひで充分やれるといふので、やり始めたんでせうね」
記者「紙代、印刷費、原稿料、全部を含めてどれくらい掛かつたでせう」
佐佐木「二百圓足らず。だけども、その時分はね、風呂場にガスを引いて、その施設費が一圓くらゐなんだ」


2)夢が漂ふ面白さ


川端「 『文藝春秋』といふのは、菊池さんの書いたものの題にあつたんぢやないかな」
宇野「随筆の題にあつたな」
佐佐木「それは『文藝往来』だ。いや、『文藝春秋』といふのもあつたかも知れないな」
永井「多分、菊池家が小石川の林町にあつた時分だと思ふんですがね、初めておやぢさん(菊池寛)を訪ねると、そのとき初めて川端さんにお目にかかつてね。さうしたら、おやぢさんが『校正、手伝ひにいけよ』つて言ふんで、あなたとご一緒に印刷屋へいつたことを憶えてゐます。『頃日』といふ誰かの文章があつたんで、『日頃』じやないかと思って、これ”ひごろ”ぢゃありませんかつて訊いたら、『いや、頃日でいいです』つて、紺絣を着てゐた川端さんが言はれてましたよ」
佐佐木「永井君が『黒い御飯』を出したのは二十くらゐの時でね、菊池が寄稿家紹介をして『永井龍男は二十の子供である』と書いたんだ(笑声)」
川端「僕が二十四でまだ学生でした」
佐佐木「直木が三十二」
永井「座談会の進行係ばかりやつてゐたのに、三十年経つたらやつと座談会のお客になれたんだからね(笑声)」
佐佐木「第一巻の編集後記に菊池寛自身が『かういふものをやつてみるけれども、原稿が集まらなかつたり、うまくゆかなかつたら、来月にでもやめるし、うまくいつたら堂々たる文芸雑誌にしてもいいと思つてゐる』と書いたんだ」
川端「大正十二年といふと、地震のあつた年ですね」
宇野「その三月が創刊だらう?」
佐佐木「いや、一月。さうして九月號が出るばかりになつたところで地震で、すつかり焼けちやつた」
小林「大正十二年といふと、僕はまだ高等学校の学生だ」
宇野「創刊號を出す時、菊池君が江口(江口渙)と僕のところへ手紙を出してくれたよ、僕たちがその時那須へ行つてたから、那須へ手紙をくれたんだ。その手紙の中に、原稿料が五圓と書いてあつたので、『これならいい原稿料だな』つて江口が言つたんだ。ところが、あとでわかつたのだが、五圓といふのは一篇で五圓だったんだ。(笑声)その時江口が書いたのが『文壇総撫斬』といつたのかな」
佐佐木「いや、『文壇斬捨御免』だ」
宇野「その江口の文章が面白かつたといふので、菊池君が特に十圓くれたと江口がいつてゐたよ」
佐佐木「文筆業者には払ふといふのが建前だつた。原則はさうだつた」
宇野「 『菊池寛編輯』と大きな字で書いてあつたね」
佐佐木「三號から恩地孝四郎が表紙を書いてね、その題字が大体今でも踏襲されてるわけだ」
宇野「直木が書きだしたのは、いつからだらう」
佐佐木「初めから」
宇野「創刊號は書いてないね」
佐佐木「いや、書いてる」
宇野「その時、ゴシップは書いてなかつたかね?」
佐佐木「第二號から書いてる」
川端「直木さんと芥川さんが一番多いでせう、書いた回数は」
佐佐木「死ぬまで毎號書いていたからね」
吉川「芥川さんは初めから『侏儒の言葉』だったのかね」
川端「さう。ずつと巻頭に載り続けてゐたわけです」
吉川「外から見てゐても、創刊当時は夢が漂つてたね。ああいふ面白さを持つた雑誌というのはなかつたな」

3)大震災のあとさき


小林「菊池さんはいくつだつたんだらう、創刊ごろは」
佐佐木「三十五くらゐだらう」
吉川「永井さんが川端さんに初めて会われたといふのは、何號ぐらゐの時?」
永井「二、三號の頃ぢやないですかね。僕はまだ社に入つてゐません。初めて菊池さんに会ひにいつたんですよ。そのとき『黒い御飯』といふのを置いて来たんです」
宇野「神明町に菊池君がゐたのは何年頃か? 確か自身のすぐあとだらう?」
佐佐木「さうじやない。神明町で地震に遭つて、これは比較的大きな家でね」
宇野「玄関に大きなピアノ……ぢやない、ピンポンの台があつて……。僕が行つた時、そのピンポン台の前に藤森淳三がぽかんと立ってゐたよ」
川端「焼け出された澤田正二郎が避難してきたり、菊池さんがピストルを持つてゐたり……」
永井「何です、ピストルといふのは」
川端「地震の時、革袋に入れたピストルを腰につるし、木刀を携へて。菊池さんて、さういふところがあるんです」
宇野「地震の時菊池君が怖がつて、郷里に帰らうと言つたことがあつたね」
佐佐木「その後自分で書いてるものによると、さうではなくてね、かういふ浮花軽佻な文筆生活を続けてゐることは厭だ、地震に遭へばすぐ周章狼狽するやうな生活は厭だ、と言つて……」
宇野「それは自分だらう」
佐佐木「自分がさ。もつと足が地に付いた生活をしたいと思つたから言つたんで、何も慌てふためいて帰らうとしたんぢやない、と書いてた」
宇野「帰つて百姓をしようとは言つていたね」
佐佐木「さう。それは言つたんだ。だけども、文藝春秋は九月號を休刊しただけで、十月號は出してるんだ。その時は田畑に来て、その翌年、金山へ……」
宇野「あの家は小さい家だよ」


4)ゴシップの名人直木三十五


佐佐木「あれを三千圓か何かで買つて越したんだ。それが金山御殿といつて、大変なことだつて言はれたんだからね。あの時分の文藝春秋は、むやみやたらにゴシップみたいのものばかり載せてね、それも採点表だとか、愚にもつかんものを載せたけれども、小林君なんか読者として見てゐて、ああいふものを苦が苦がしいと思つたかな」
小林「いや、あれが面白くて買つたんだ」
宇野「僕だつて面白いと思つたね」
吉川「あれは面白かつた」
宇野「僕は自分の事を書かれてゐても面白かつたね」
佐佐木「顰蹙すべきものだとは思はなかつたかな」
宇野「そんなことは思はなかった」
小林「それからね広告にうまいスローガンがあったよ。辛辣なる何んとか彼んとか、……対句みたいになつてるやつでね、うまい言葉だった――忘れちやつたけど」
川端「採点表は喧喧囂囂でしたね」
佐佐木「かういふことまで書いていいのか、なんて……」
川端「今東光があれで菊池さんと喧嘩をして……」
宇野「採点表は誰が書いたの?」
川端「直木さんでせう、恐らく」
宇野「直木はいつも寝ころんで書いていたな」
吉川「ゴシップといふやつ、実は書く当人も面白いんだ、書かれた者も苦笑、読者も愉快といふのがほんものだ。直木以後、ほんたうのゴシップといふのがないね。今もあれ流をやる者があるとすれば、永井君以外にないな。近頃のゴシップは、むくつけきものになつちやつて、味も素ッ気もない、あの時分のゴシップには、落首的な、風刺文学的なものがあつたね。どうです永井さん、やりませんか(笑声)」
宇野「あのゴシップは直木の傑作だね。芥川は、あのゴシップをみただけでも直木は才人だねといつてた」
佐佐木「ええ、傑作」
吉川「ずつと後の事になるが、あの長い顔の顎をなでながら、ぼくに云ったことがある。レインボーグリルで半日煙草をすつてゐると、けつかうゴシップ材料で一か月の飯になるつて。何しろ相当長い期間やつてたでせう」
佐佐木「震災の年に創刊して、翌年には金山へ越してね、三千部で始めたのが、その頃にはもう一万以上になつちゃつてね、それに自信を得て文藝講座を始めたわけだ。芥川龍之介、山本有三、菊池寛といふ名前で文藝講座を始めて、新会員募集といふ広告をしてね」
宇野「ああいうのは菊池のうまさだな」


5)有島邸時代のこと


佐佐木「うまさ。また偉さでね。出版で儲けるといふ目的には達しなからうが、同時にいろんな人に書かして原稿料をやらう、という気もあつたんだ。金山から有島邸へいつたのが大正十四、五年の頃でね、大阪ビルに越したのは昭和二年の末か三年の初めだ。
その時分は大分違つて来てね、後藤新平子爵に原稿を書いてもらつて嬉しいとか、来月は元田肇氏に書いてもらふことになつてるとか大変な敬称を使つて、菊池が後記に書いてますよ。だから、初めはごく一部の文筆の士が勝手放題なことを書く雑誌といふことであつたのが、政治家に書かせ、学者に書かせるというやうに、形が整つて来たんだな。大正十四、五年頃からでせうね」
宇野「有島邸時代?」
佐佐木「さう」
永井「僕が入つたのは有島邸時代でね、小学生全集を大がかりに……」
佐佐木「芥川龍之介が自殺する前に有島邸へ来たんだね。菊池に会ふつもりで来たらゐなかつた。それを菊池に知らせなかつたんで、社員が大分叱られたといふ話だ。その頃は『映画時代』……」
永井「ええ、出てました。それから『演劇新潮』 」
宇野「 『映画時代』はいつ頃? 古川綠波のやつてた?」
永井「有島邸で、綠波と近藤經一とでやつてたんです」
佐佐木「その時分だらう。川口(松太郎)がゐたのは。『映画時代』か『演劇新潮』かな?」
宇野「直木の紹介で入つたの?」
佐佐木「プラトン社から引き揚げて来たんぢやないかな」
永井「有島邸の時に、門の脇の応接間で事務をとつてゐたら、誰か和服の着流しの人が入つて来てね……」
宇野「あの家は大きかつたね、門を入つたら部屋がズツと並んでゐるのが見えたね、あの家は」
永井「 『おや、芥川さんが来た』つて思はず言つたら、それは直木さんなんですよ。(笑声)僕は新米だつたから」
宇野「さう言ふと、直木と芥川はちよつと似たところがあつたね。あの時分直木は六番町にゐたから、有島邸のすぐそばだ」
川端「有島邸時代は僕らは毎日のやうに社へ遊びにいつてましたね。楽しかった」
永井「よくみんな麻雀をやつてゐましたね」
佐佐木「僕は鎌倉からいつて優勝したおぼえがあるね」
永井「初め小学生全集の手伝いをしろつて言はれてね、奥の小学生全集の室へ入つていつたら、美人がたくさんゐるんですよ。ボーッとしちやつて、仕事が出来ない……」
吉川「ほう、さうかね」
永井「今の森岩雄夫人、その妹さんの佐川さん、亡くなられた岸田國士夫人、それから例の、これも故人になつた小里文子さん。実に美人がいつぱいゐましてね。翌る日からその部屋に行かれなくなつちやつた(笑声)」
佐佐木「 『映画時代』をやつて『演劇新潮』をやつて、その次は『創作月刊』だらうね」
川端「 『婦人サロン』は?」
佐佐木「あれは大阪ビルへいつてから。『話』は昭和八年だね。さうすると『モダン日本』の方が古いな。その次が『婦人サロン』だらう」
宇野「 『婦人サロン』に、井伏鱒二と中村正常がユマ吉ペソ子といふ名で、連載物を書いてゐた。ユマ吉はユウモアで、ペソ子はぺエソスだ」
記者「小林さんが小遣い稼ぎをされていたといふのは、どんなものをお書きになつたんですか」
小林「埋め草原稿で、ランボオとかボードレールとかの伝記を書いたんだ。二年くらゐ書いたな。僕はそれで暮らしてたんですよ。あれで僕はずゐぶん原稿料をもらひましたね。悪る口のほうは書かなかつたな。文壇の人を知らなかつたから」
永井「君(小林氏)が六號を書いた頃は、もう総合雑誌になつて来た頃なんだ」
記者「愛読者大会を有島邸でやつて、園遊会みたいなことをやつたことがあるんぢやないですか」
佐佐木「あつた、あつた。畑中蓼波なんかが来てね」
永井「古原稿を買つた。古原稿の即売や、それから庭で芝居をやつてね。色紙、短冊なんかも書いて売つたんぢやないかな」
佐佐木「門を入つたばかりの所に、芝居の舞台を作つたりしてね。有島邸時分は景気がよかつたんだね」
永井「出来上つたばかりの大阪ビルへ行かれたんだから、景気はよかつたんでせうね」
川端「あの時分が一番、文藝春秋の楽しい時でね。僕らも一週間ぐらゐ泊まつてたな。横光君もしばらくゐたことがありましたよ。きれいな女中さんがたくさんゐましたよ。女中さんといふんぢやないでせうけどね」
永井「馬海松とか、冨田千秋、その他の社員がそれぞれ部屋を持つて住んでゐましたし、われわれも三度三度まかなひめしが食べられたんです」

6)若さみなぎる時代


吉川「文士のした仕事で成功したのは、文藝春秋ひとつだね。あとないね、ほとんど。やつたことはずゐぶんみんな勇ましくやつたけれども」
永井「実際おどろくことは、あの頃の作家たちの年齢の若さですね」
佐佐木「若さだよ」
記者「当時の作家はどんな遊び方をしてたでせう」
永井「それは佐佐木さんに訊くほうが早いよ。その方の選手だつたんだから(笑声)」
小林「僕はね、大学時代、新進作家たちに頼まれてフランス語を教へた事がある。誰の家だつたかな、ゆきましたよ。三回位でやめちやつたけどね。よくもかう文士といふものは遊んでゐるな、と思つた(笑声)」
川端「それはどういふ人?」
小林「池谷(信三郎)、石濱金作、片岡(鐵平)、横光利一」
佐佐木「麻雀は大正十三年からだね。それまでは将棋とか花札だらう」
記者「遊びは専ら花柳界でしたか」
永井「それは佐佐木さんに訊いたほうがいいだらう。僕は子供だつたから(笑声)」
宇野「遊びは直木派と里見派の二派だ。連中があんまりだらしなく遊ぶものだから『九時ゆき十一時かへり』といつた、つまり、十二時一時とだらしなく遊ぶことを戒めた言葉だ、つまり、『九時にいつて十一時くらゐに帰ることにしたらどうだ』といふ意味だ、それは、君(佐佐木氏)が言つたんだよ。やつぱり偉いよ。だらしなく遊ぶことをいましめたんだからな。やつぱり、やつぱりだな(笑声)」
佐佐木「いや、面白くもをかしくもないんだ。僕は黙つている。宇野浩二は黙つている。……」
宇野「あの時分芥川も来たな」
佐佐木「お酒を飲まないでお茶だけ飲んでね、藝妓と話をしたつて、面白くもおかしくもないつていふ顔をしてるんだ」
宇野「一つあるよ。向こうの部屋に菊池の声が聴こえるといふので、欄間の上に登つて覗きこんだことがあつたらう? あれは君(佐佐木氏)だな?(笑声)」
永井「佐佐木さん、まづい座談会になりましたね(笑声)」
記者「お酒を飲まないで待合へいらしつたんですか」
永井「さふいうのが一番恐ろしいんだ(笑声)」
宇野「ザックバランに話していいだらう」


後編に続く→

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