知性はときに「暴力」になる
毎週日曜日、TBSでドラマ『ドラゴン桜』が放送されていますね。いよいよつぎが最終回とのこと。わたしは全話を丁寧に追いかけているわけではありませんが、隔週ぐらいのペースでみています(隔週で楽しめるのかって? それなりに楽しめますよ)。
『ドラゴン桜』にかぎらず、『東大王』だとか、さいきん、「東大」の名を冠した番組や出演者の活躍がめだつ気がします(気のせいでしょうか?)。同じ大学の卒業生として、誇らしい気もちがないわけではないですが…ただ、「東大」というものが記号的に消費され、社会もそれを受け容れている。そこに、なんだかムズムズするものを感じてしまいます。
それにしても、ひとはなんで「知性」を身につけたいと思うんでしょうね。アダムとイブが知恵の実を食べてしまったから? 愛知(フィロソフィー)をもとめることが人間の本質だから?
現実的なことをいえば、よい大学に入り、よい会社に入り、要するに「人生をイージーにするため」でしょうか。そして知性は、そのための絶好の「武器」になる。
とくに日本においては、そういう面が顕著であると感じます。戦前からこの国では、新卒一括採用と終身雇用制度が常態化し、それによって、ひとよりも「知性」を身につけることが社会的なステータスにつながる、という構造的な矛盾をかかえつづけています。
さいきんでこそ、通年採用や、いわゆる「ジョブ型」雇用へのシフトの動きも多少めだつようになってはきましたが、それでもとうてい、日本人の「安定志向」「権力志向」を土台からくずしうるほどの力はありません。
だから、そういう社会で育った人びとが、なにか問題が出来すると、「知性」を武器にするのは、あたりまえといえばあたりまえなのかもしれません。
ですが、それゆえにこそ、知性というのがときに、ほとんど「暴力」と化しているケースがあります。
わたしは仕事柄、「ことば」をたいせつにしていますし、このnoteでも「ことば」を発信しています。そうしてさまざまな文章に触れるなかでおもうのは、知性が「暴力」であることにたいして無自覚なひとの表現には、どこか「冷たいもの」があるということ。
どれほど該博な知識がそこにちりばめられていようとも、そこには、「なにか」が欠けている。それも、「致命的」に欠けている。
ひとことでいえば、その「なにか」とは、「弱きをたすける」という考え。いいかえれば、じぶんが振りかざすその知性が、ともすれば「弱者」を傷つけかねないということへの配慮です。
知性というのは、まちがっても、我欲をつらぬきとおすためのものでも、じぶんの「信者」をつくるためのものでも、弱い者を脅し、洗脳し、従えるためのものでもありません。それは「暴力」的な知性の危険きわまりない用い方です。
とはいうものの、こういう考えかたじたいが、「弱者」にたいする「媚び」なんでしょうかね。どうなんでしょう。
でも、「強者」にこびるより、「弱者」にこびるほうがはるかによいとわたしは感じます。「強者」からもらえるのは、せいぜいがお金と権力ですが(だからこそ「オイシイ」わけですが)、「弱者」からは、やさしさや繊細さをわけてもらうことができます。
うーん。でも、知性があることで人生がほんとうに「イージー」になるのかどうか。残念ながら、たぶん、ならないでしょうね。
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