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読みとおせなくてごめんなさい―「挫折本」たちへの鎮魂歌

 わたしのこのnoteでは、本や読書に関する記事を中心的に発信していますが、そこで取りあげる本のほとんどは、わたしが「読んだ(読み切った)」本たちです。

 でも、ふとおもったのですが、なんだかこれって、ちょっと「ええかっこしい」なのかもしれない。というのも、そうして「読み切った」本があるいっぽうで、とちゅうで読むのをやめてしまった「挫折本」だってあるわけで、それらにいっさい触れずに「あれも読んだ、これも読んだ」というのは、なんだか「フェア」じゃないとおもうのです。

 わたしはほぼまったくと言っていいほど、「積ん読」というものをしません。なので、読みたい本がどんどんたまっていく、という現象は起きないのですが、それでも、そのときどきの事情によって読みさしになったまま、二度と開かれることのない本が(それなりの数)存在しています。

 挫折本が1冊もない、殊勝な読書家のかたってどれぐらいいるんでしょうね(尊敬します)。わたしのばあいは、感覚的に、1割~2割ていどの本は、とちゅうで「なんらかの事情」によって頓挫している気がします。

 ということで、恥も外聞も捨てて、わたしが挫折した本を5作ほど、特に世間的に「名作」とされているだろう本のなかからご紹介しましょう。
(なお、以下の本については、とうぜん、読み終えてすらいないなかでの印象論に終始しますので、正確な記述をいっさい欠いている旨、なにとぞご海容たまわりたく。)

①夏目漱石『吾輩は猫である』
 
 漱石の作品は新潮文庫からでているものはすべて読んでおり、2回、3回と読み返している作品もたくさんあるのですが…この『猫』だけは、とちゅうで読むのを放棄してしまいました。

 ご存じのかたもいらっしゃるかもしれませんが、『猫』って、もともとこんな長大になるはずではなかったんですよね。高浜虚子にすすめられて俳句雑誌の「ホトトギス」に掲載されたのですが、はじめは1回きりの読み切りの予定だったのが、好評のために連作になったという事情があります。

 退屈なわけではないんです。落語的なユーモアがあふれる文体は、おもわず笑わされるところもあります。ですが、いかんせん、話の筋がのらりくらりとしすぎている。あ、でも、最後に語り手の「猫」がどうなるのか、その「オチ」だけはいちおう知ってますよ笑

②和辻哲郎『古寺巡礼』

 大学生のころ、京都と奈良にひとり旅をしたことがありました。そのときに、寺をめぐるならぜひ勉強になりそうなものを…というおもいで旅の友にした一冊です。

 こちらも、けっして「つまらない」という印象はもたなかったのですが、とはいえ、さすがに二十いくばくの若造が、軽々と手にして理解できるシロモノではない。

 旅先に関連した本って、その旅をしている最中はいいのですが、けっきょく読み終えることなく旅から帰ってくると、「また続きを読もう」という気にならないのはわたしだけでしょうか? 鷲田清一の『京都の平熱』とか開高健の『ベトナム戦記』とかも、旅の終わりがそのまま読書の終わりになってしまった本でした。

③ヘミングウェイ『老人と海』

 世間的には、名作中の名作とされている一冊でしょう。ページ数も比較的すくなく、ヘミングウェイのほかの長編にくらべれば、はるかに読みやすい一冊(のはず)。

 でも、どうしてでしょうね。とちゅうで読みさしになったまま、やめてしまいました。これもどこか旅行にいったときの「連れ」にしたおぼえがあるのですが、いろいろな雑念に憑かれて、いまいち作品世界に没頭ができなかったように記憶しています。

 ヘミングウェイに関しては、ほかに、『移動祝祭日』を読もうとして、挫折した経験があります。いや、こと英米文学に関していえば、オースティンの『高慢と偏見』とか、サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』とか、ことごとく挫折してきました。
 英米文学の「成功体験」があまりないことで、いまでも、英米文学への苦手意識がぬぐえません。

④カミュ『ペスト』

 コロナがあって、ふたたび注目をあつめた一作ですね。ここ1年ほど、書店でもしばしば平積みされているのを見かけますが、見かけるたび、とちゅうで読み捨ててしまった罪の意識(古傷?)をえぐられます。

『異邦人』はまったく飽きずに読めましたし、世界文学の大傑作のひとつにあげることになんのためらいも感じませんが、『ペスト』のほうは、あまりノリきれなかった記憶があります。なぜノリきれなかったのか、いまとなっては、その理由すら定かではありません。

⑤ガルシア・マルケス『百年の孤独』

 版元の新潮社が文庫化をすすめないので、いまだに単行本のみの発売です。税込みで3000円ていどとお高めですが、わりと早々に「ドロップアウト」してしまいました(コスパの悪さよ…)。

 たしか、巻頭のほうに、小説の登場人物をまとめた相関図のようなものが丁寧に示されているんですよね。にもかかわらず、同じ名前の人物があらわれたりして(たしか)、どうしてもうまくストーリーがつかみきれないままやめてしまいました。

 トルストイの『戦争と平和』には、500人を超える人物がでてくるといわれていますが、むしろそちらのほうがわたしはあまり苦しみをおぼえずに読みとおすことができました。ロシア文学も人物名の把握しづらさで有名ですが、わたしのばあい、ラテンアメリカ系の文学のほうが苦手なのかもしれません。

 …ということで、以上、「書評未満の書評」になってしまいましたが、上記「挫折本」たちのせめてもの供養になればとおもいます。南無、阿弥陀仏…。

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