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部屋でYシャツの私。〜コロナ考② 日本の教育の失敗〜

僕は今部屋にいてYシャツを着ている。仕事はない。たとえ仕事がなくとも部屋着でだらだらと過ごさず、Yシャツに袖を通してパリッとした心持ちを維持しようという心がけからだ。
今僕の前にはだだっ広い時間の海が広がっている。そこにぷかりと浮かんでいた仕事たちは波に飲まれてそのほとんどが沈んでしまった。つまり僕は、この海で進むべき標を失ってしまったことになる。フリーランスはつらいよ。せめてこの海で溺れてしまわぬようジタバタしてみようと思う。

新型コロナの感染拡大はそれ自体の問題ばかりでなく社会構造や制度、価値観の問題が伴われているところにその複雑さがある。しかしたまたま運悪くそうなったというよりも起こるべくして起こったとみんな言っている。僕もそう思う。潜在していた諸問題の粒子がある確率の波動とぶつかったことによって顕在化したというわけだ。この災厄は我々に大きな価値の転換を迫っているように思う。暇なので考えてみよう。

今日は最終的に教育の話になるような気がするが、まずコロナの流行初期に起こった買い占めについて考えてみようと思う。

僕は、元々はマスク嫌いだったこともあり、また初めのうちは新型コロナを甘く見ていたこともあり、マスクを買おうとも思わなかった。寒い中、朝から開店前のドラッグストアに並ぶ人たちを見て、バカな人たちだなとさえ思った。それが、瞬く間に新型コロナへの危機感が高まると仕事先でもマスクの着用が義務付けられるようになり、エアロゾル感染なるものがあるらしいということがわかってきてさあ大変だ。僕はあっという間にマスク難民になった。行く先々で使い捨てマスクを1枚恵んでもらい、それを大切に使う日々だ。
しかし、じゃああの時みんなと同じようにドラッグストアで我先にとマスクを買い溜めるべきだったのかと考えると、それはそれでなんか嫌だなと思った。

極端に言ってしまえば「自分一人が生き残ってどうする」ということだ。当然ながら自分が買い占めればその分、マスクを入手できない人の数が増えるわけで、すごく極端に考えて自分一人(とその近親者)だけがマスクを手にし、そのおかげで生き残ったとしてもそんなの少しもハッピーではないだろう。もう少し現実的な話で言うと、一部の人がマスクを買い占めることでマスクが手に入らない人が増え、マスクが手に入らない人たちは感染リスクが高くなるのだとしたら、一部の人がマスクを買い占めることで社会全体の感染者数を増やす可能性がある。相互扶助とは、単なる道徳の問題ではなく、古来から人類がとってきた生存戦略だったのではなかったか。それがまさに今、人類の生命に関わる問題が立ち現れた時に相互扶助どころか、他人が困ることを承知で買い占め行動に走ろうというのだから、これは大問題である。

少し前までマスクが高額で取引されていたことからも、今やマスクはちょっとした富だと言える。そして、富全体のパイが限られている時、一部の人がその富をため込むと、社会全体としては貧困になる。
そして、これはここ数十年の日本社会の姿をそのまま映し出しているのではないだろうか。

生活インフラへの需要が高まった高度経済成長期には、社会全体の富も増えていったから、自分一人の利益の追求がそのまま社会全体の発展に繋がったが、もう十分豊かになった今の日本は、需要が伸び悩み、またアジア諸国が経済成長したことによって、社会全体の富は限られたものになった。そこで自分一人の利益を過度に追求することは社会全体を貧しくするというフェーズに日本は差し掛かっている。
富を増やすには源泉となる資源が必要だが、「マーケティング」という言葉に浮かれて資源の開発を怠ってきたのが今の日本だ。マーケティングもバカが手を出すと詐欺とほとんど区別がつかなくなってくる。資源がどんどん限られてくる中、それをいかに大きく見せるかに苦心してきた結果、大企業や政府までが改竄だとか不正を行うに至っている。

しかし、どうしてこんなことになってしまったのだろうか。それはもう明らかに教育の失敗にある。日本は、もうここ数十年教育に失敗し続けてきたのではないだろうか。少なくとも数十年前に成功だと思われていた教育が、時代遅れのものになっているにも関わらず、いまだにそうした過去の栄華にしがみつこうとしているようだ。

教育の問題はたくさんあり過ぎてとても語りきれないが、とにかく勉強への動機付けが最悪である。
日本で勉強ができると言えば、とりもなおさずテストで高得点を取れるという意味である。「勉強は苦痛」という前提から出発し、無茶な宿題や勉強計画を課す(教師はやたら計画を立てさせたがる)。そして、宿題をやらなかったことや計画通りいかないことを叱責して、子供にまず「自分はやるべきことをやらなかったのだ」という罪悪感を埋め込むのだ。
そして、その罪悪感に漬け込み、親はゲームや漫画やスマホを取り上げる。逆に、高得点を取ればご褒美が与えられることになる。子供は、勉強はやりたくないが高得点を取らなければ怒られる。そこで、できるだけコスパの良い勉強をすることに頭を使うようになる。つまり少ない労力で高得点を取れるならそれに越したことはないというわけだ。そこで、例えば一部の子供は「自分で解かずに答えを写す」という解にたどり着く。ばれたら怒られるが、適度に間違えておけば大抵はばれずに済む。学校のテストは、思考力を問うものというよりは、教師に指示された範囲をちゃんと覚えたかどうかを試すものとなっているから、コツさえつかめば高得点が取れるようになっている。受験ともなると少し大変だが、受験も一大産業となっていて、頭を使わなくても問題が解ける攻略本みたいな教材がたくさん出回っている。

こうして、実際にその得点に見合った能力を有しているかどうかということはほとんど問題にされることがないまま、子供たちにはとにかく低コストで高得点を取ることに専心させてきたのだ。
そして、そのまま大人になり、会社に入り、そこでもやはり業績が問題にされる。そこで最もコスパの良い業績の上げ方が、数字の改竄であると気付くのは、理にかなっている。

また、高得点が取れたらご褒美がもらえるというスタイルは、行政から企業への施策の中にも見られる。例えば、女性活躍推進法においても、ある条件の元目標値を達成した企業には補助金が与えられるというものがあった。テストで良い点を取ったらお小遣いがもらえるというのとやっていることは大して変わらない。

ここで抜け落ちているのは「世の中を良くする」という視点だ。勉強は、世の中を良くして、生きやすくする(生存確率を高くする)ためではなく、自分が怒られないため、褒められるため、ご褒美をもらうためにやるものになっている。不正をして数字の上でだけ業績を伸ばしたって実態が伴われていなければ、どの道会社は衰えてゆくに決まっているのに、視野狭窄に陥って自分しか見えなくなっている。

こうした視野狭窄が昨今の買い占めとも関わっているのではないかと思う。「自分の能力で世の中を良くする」という考えが教育の場で全く植え付けられていないので、ほとんどの人は自分と社会の繋がりを実感することができないのだ。だから、自分が買い占めをすると誰が困るとか、そういうことが想像できなくなっている。
こうして何十年にも渡って、人的資源を痩せ細らせてきた日本は、危機に弱い。今までは数字の上でだけはなんとか経済成長を続けてこられたけれど、ハリボテの成長を裏打ちする資源がすっかり欠けてしまっているのだ。
教育は時間がかかるが、それでも今の学校教育や受験産業の構造を見直していかないと、ますます少なくなる富を我先にと国民同士が争い合う醜い社会がやってくるんじゃないかと不安になる。

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