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『演技と身体』Vol.8 感情と内臓

感情と内臓

感情の”よくわからなさ”

感情とは何か。科学や哲学、あらゆる分野でおそらく決着のついていないテーマだし、よくわからないからこそ魅力的でもある。
感情というものを科学的、哲学的に解剖・解明しようというのは、芸術の立場からは程遠く、よくわからないものをよくわからないままに表現しようというのが芝居である。きっと多くの人がそう考えている。
しかし、よくわからないものをよくわからないまま抱えておくことは思っている以上に難しい。実際に、多くの役者が感情を表現に落とし込む際に、自分の過去の経験や見聞に重ね合わせることで処理しようとするが、それは結局自分のよく知っているものに置き換えてしまうことになる。あるいは、「悲しみ」「怒り」「失望」「やるせなさ」などといった明晰な言葉に置き換えてしまう。
こうした困難を乗り越える方法の一つはイメージの力を使うことだ。例えば「うんざり」という言葉が明晰でわかりやすいのに対して、「米の上にうどんとパンを乗せて食べる感じ」と言うと、わかるようなわからないような曖昧さが残る。どちらも言葉であるのに変わりはないが、明晰な言葉よりも詩的な言葉や比喩的な言葉、つまりイメージ的な言葉に置き換えた方が感情のよくわからなさを失わずにおける。
こうしたイメージの活用については、また今度詳しく書こうと思うが、今回は別の方法、敢えて科学的なアプローチを取ることによって、感情のよくわからなさに接近しようと試みる。

感情と内臓はつながっている

感情が何のために生物に備わったのか、そしてその中でも人間がとりわけ複雑な感情を手にしたのはなぜなのかということについては議論の分かれるところであるが、感情が内臓感覚と深く関係しているという点については一致した見解が得られているようである。(僕が参考にしたのは、三木成夫『内臓とこころ』エムラン・メイヤー『腸と脳』ジェシー・プリンツ『はらわたが煮えくりかえる』ブレイクスリー『脳の中の身体地図』
ごく簡単に説明すると、脳にある島皮質という場所が内臓からのシグナルを受け取ってうんちゃらかんちゃら・・・ということなのだが、ともかくここでは結果だけを受け取ろう。特に、ジェシー・プリンツに従って身体知覚説を採るなら、感情とは周囲の環境との関係に対する内臓の反応を表したものだということになる。
例えば同じ「胸のざわつき」でも、嫌な予感というネガティブな評価がなされることもあれば、恋の予感というポジティブな評価が下されることもある。つまり、ただ単に内臓の反応だけを表したのが感情なのではなく、ある事象とそれに対する内臓の反応を掛け合わせたものが感情なのだということになる。
なるほど、だがそんなことがわかって何になる。感情の魅惑がひどく味気ないものになるのではないか。そう思った人もいるかもしれない。しかし、少なくとも僕の経験上だと、感情が内臓感覚だとわかることで日常の経験は味わい豊かなものになる。そして、それは演技をする上で欠かせない感覚ではないかと思う。少し長くなるが、今回の記事はこれまで書いてきた内容が繋がってくる内容なので是非読んでほしい。

内臓感覚を呼び覚ますために

胸が詰まる、胸が躍る、腹が立つ、肝を冷やすなどなど、感情が内臓感覚と結び付けられた表現はたくさんある。しかし、これらはあながち比喩ではないらしい。たとえば腹が立つ時、つまり怒りを感じている時、胃腸は収縮活動が増大しており、文字通り”立つ”ような感じがしているのだ。
すると、感情が豊かであるということは内臓感覚に敏感であるということができる。
さて、では内臓感覚に敏感であるためにはどのようなことが必要だろうか。

腹を開く

ひとつには、腹が開いていることだ。腹が開いているとは、知覚が内臓によく伝わる体の状態であるということだ。
そのためにはまず知覚が外に開けていることが大事だ。スマホばかり見ていないで、顔を上げて季節や時間の変化に気付けるようにしておきたいものだ。
さらに、その知覚が内臓に伝わるためには体の余計な筋肉や内臓に力が入っていないことが重要だ。力が入って固くなっていると感覚が閉じるばかりでなく、うまく感覚が伝わらない。
今目の前にあるものに、まず手に力を込めて触ってみよう。それから力を抜いてもう一度そっと触ってみる。内臓に感触が伝わるのが感じられないだろうか。
普段から内臓感覚が豊かであるためには、余計な力を抜いて知覚を外に開いた状態でいることが大切だということがわかるが、そのために必要なのが前回の記事で書いた深層筋の活性なのだ。

内観と直感

もうひとつ大切なのは、自分の内臓の反応に対して敏感であることだ。内臓は意識して動かすことができない筋肉で、普通生活していてもめったに意識には上がらない。だから、あまりにも注意を払わずにいると内臓からのメッセージをうまく受け取れなくなっていまう。
では、どのようにして内臓感覚に耳をすませばよいのだろうか。その方法の一つが第5回の記事で書いた瞑想による内観である。呼吸は意識しなくてもできるが、一定の時間他のことをやめて呼吸だけに意識を向けることは内臓感覚を研ぎ澄ますのに有効だ。
さらに内臓によく耳を澄ますことは、直感を養うことにも繋がる
脳には直感細胞と呼ばれる細胞があって、直感的な判断をする時に働いているらしい。その直感細胞が内臓感覚を受け取る脳の部分である島皮質と深く関連しているというわけだ。
これは僕なりの解釈なのだが、直感とは過去の内臓感覚のデータベースの中から類似した状況における内臓の反応を照合して判断することで、認知や思考を省略することなのではないかと思う。だから、内臓感覚に優れていれば直感は合理的で信頼に足るものだと言える。(逆に言えば、たとえば国語の試験など、知覚の果たす役割が少なく専ら認知や思考に関わる場面での直感はまったく役に立たないことになる。)
女性は生理や妊娠などを通して内臓感覚と向き合う経験が男性よりも格段に多いことを考えると、"女の勘"とか"女性は感情豊かだ"という言説は全く根拠のない話でもないのかもしれない。

感情の原形を味わう

さて、ここまで読んでいただけたなら是非とも実践していただきたいのだが、懐疑的な読者のためにその効用を書いておこう。
できるだけ腹を開いて生活してみる。すると、家を出た途端に花が咲き始めたことに匂いで気付く。これまで不快に感じていた街の喧騒が心地よく通り抜けていく。感情というのはある意味で受動的に発生するものなので、メカニズムがわかればあとはそれがやってくるのを待つばかりである。感情が内臓感覚に過ぎないということがわかったところで感情がなくなるわけではなく、むしろ無駄な抑制を取り払うことで、より豊かな感情経験ができる
また、例えば手で色々な物に触ってみて、その感触を内臓で味ってみると、何だかもぞっとした感覚が通り過ぎてゆく。肉を舌で味わうと同時にその感覚を内臓に伝えてみると、じわっと何かが腹で溶けるような感覚が現れて消える。これらの感覚は脳が名付けや評価付けをする以前の、いわば”感情の原形”である。大きな脳を持たない動物でも快/不快という大雑把な感情は持ち合わせている。人間は脳の発達によってそれをより高解像度で認識できるというだけで、内臓で起こっている反応は他の動物と変わらないはずである。しかし、言葉に頼りすぎるあまりそうした感情の原形となる内臓の反応を感知できなくなってしまっては本末転倒である。名付けや評価付け以前の内臓の反応を感じることは、結果的によくわからない感情をよくわからないまま受け取るということになるのだ
禅では不立文字と言って、言葉や文字というものを徹底的に信頼しないが、それは言葉が介入した途端に”今ここ”からどうしても離れてしまうからだ。目の前に咲く梅の花を見て「梅の花」という言葉で捉えた瞬間に目の前の花から遠ざかってしまう。演技においてはもっと深刻だ。何しろ演じている人格そのものが虚構なので、感情を言葉で捉えた瞬間にその人物は存在しなくなってしまう。ある程度のプランは当然必要だが、台本や相手がいる以上、内臓は必ず反応するはずだ。その感覚を研ぎ澄まし、内臓で受けたよくわからない感覚を言葉にしないまま動きや声に伝え返す。こうした順序で演じることで、嘘がなくなり人物は存在できる。つまり、言葉は何かしらの意味で必ず嘘を含むが、感覚には嘘がないということだ。演技における感覚とはこのような意味で使われるべきである。

感情と表情

ここまで読んでくれた方のためにもう一つ非常に有益なことを書いておこう。
解剖学者の三木成夫によれば、人間の顔は内臓が露出したものだという。進化の過程で陸に上がった生物は使わなくなったエラを退化させて、それが口から耳、首筋の筋肉となったというのだ。さらに哺乳動物においては鼻と目も内臓に由来するのだという。つまり、顔の筋肉というのは腸管の最先端部分だというのだ。
鞭を振るうとき先端ではなく根元を動かすのと同様に、顔の筋肉が内臓の先端だというなら表情を作るのに顔の筋肉で頑張っても仕方がない。その根本である内臓から動かすべきである。
さらに喉の筋肉が内臓に由来するということは声や言葉も同じく内臓に由来するということだ。

まとめ

内臓はその構造からすると植物的であり、三木成夫も植物器官と呼んでいるが、そこに目を向けることは第3回の記事で書いた「”人間的”なるものを越え出る」ために人間の中にある植物性・動物性と向き合うという話の実践でもあるのだ。
まとめよう。感情とは周囲の環境とそれに対する内臓の反応を表すものであり、内臓感覚を高めるためには深層筋を使って動くことで余計な力を抜き(第7回)、内観によって内臓の反応をよく感知できるようにすること(第5回)が重要である。そして、植物由来の器官である内臓に目を向け他の動物にも通ずる感情の原形にアクセスすることで、”人間的”なるものを越え出るのだ(第3回)。



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