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歩き方革命 体幹を固定しない歩き方

世のなかは"棒人間"に溢れている。誰もが背骨の自然なシナリを失い、知らず知らずのうちに頑張って歩いている

つまり、誰もが背骨を棒のようにまっすぐに固定しながら歩いているのである。

今回は、身体により負担のかからない歩き方についての話である。慣れ親しんだロボットのように固まった歩き方に革命を起こし、伸びのびと、悠々と、強く柔らかく人生を闊歩されたし。


1.生き方革命

健康のためといってウォーキングに精をだす人々も例外ではない。むしろそのような人々こそ"棒人間具合"に拍車がかかっているであろう。なぜなら、現代では身体を使うための要領の一つとして「体幹を固定すること」を取りあげているからである。

一般的なウォーキング

体幹を固定する歩き方

このように体幹を固定するような無理に頑張った歩行を積み重ねていくならば、身体から快適さは失われることに結びつく。無理なく頑張らない歩行を積み重ねることでこそ、身体の快適を保つことに結びつくのである。
※ ただし、頑張って「体幹を固定すること」が悪いということなのではない

社会は頑張ることで成り立っていることを考慮しても、頑張って体幹を固めて"棒化"する人間が増えるのもまた当然の結果ではある。頑張ることによって、さらに頑張るための糧を得ようとするのは当然なのである。

頑張って体幹を固める身体の使い方をすることにおいては、体幹を強く固定するための"体幹トレーニング"を頑張ることは有効なのである。

しかし、心身の快適を維持することにおいては損失である。なぜならそれは、身体本来の機能を発揮することを邪魔する行為だからである。
※ ただし、体幹を固めることは健康のために絶対的に無益だということではない

ある測面から見るならば、どんな物事であろうと有益となるのである。

< 無理と合理の別 >
古人は、身体の機能に服従することを「合理」と表し、身体の機能に反発することを「無理」と表した。

つまり「無理」とは、身体本来の機能に服従していない"我の働き"によるのであり、言葉を変えるなら「利己的、主観的な心の作用」を要因として起こるのである。

無理 : 我を張り、身体の機能に反発すること
合理 : 我を消し、身体の機能に服従すること

「技を磨く」という言葉もまた、技から無理を除去することの表現であり、合理とは人為的に何かを「する」ことではなく、無理を「止める」ことであり、人為的に何も「しない」ことなのである。

無理 : 人為的に「する」こと
合理 : 人為的に「しない」こと


理に反する自己主張、自己肯定は心身を固め、理に従う自己献上、自己否定は心身を解く。

がしかし、自我は頑張ることが大好きである。それはサメが泳いでいないと生きていけないというように、自我は頑張る固い手応えを感じていないと生きていけないからである。
※ 故に、頑張ること、自己主張すること、自己肯定することが悪いということなのではない

また、頑張ることは人間を成長させ、自我を確固としたものへと導いてくれる大切な行為でもある。

それでもなお、自我を確固とした者は、さらなる成長へと向かい、自我を解体していく段階へと進んでいくものである。

誠実に成長を、そして心身の快適、安息、解放、あるいは道、悟りを求める者が、我を張ることから降りはじめるのもまた当然なのである。

それは"生き方革命"とでも呼べ、第二の人生の始まりのようなものである。

2.歩き方革命 

さて、歩き方である。世のなかには、多種多様な歩き方が提示されているようである。それは次のようなものであろう。

歩き方姿勢

・ うつむかず姿勢をまっすぐに前を見て歩く。あるいは胸を張って歩く
・ 体軸がブレないように体幹を固定して歩く
・ 腕をよく振って歩く
・ 大股で歩く。あるいは小股で歩く
・ 膝を高く上げて歩く
・ 膝を伸ばして歩く。あるいは膝を曲げて歩く

どのような指示にせよ、これらはどれも「身体の機能に服従する」という無理をしないことの要点を逃している。つまり人為的に我を通し"する"ことに注意が向いており、我を消し"しない"ことには注意が向いていないのである。

革命しよう。

・ うつむこうとしない
・ 姿勢をまっすぐにしようとしない
・ 前を見ようとしない
・ 体軸がブレないようにしない
・ 体幹を固定しようとしない
・ 胸を張ろうとしない
・ 腕を振ろうとしない
・ 大股で歩こうとしない
・ 小股で歩こうとしない
・ 膝を高く上げようとしない
・ 膝を伸ばそうとしない
・ 膝を曲げようとしない

もちろん姿勢はまっすぐが適しているし、歩くためには膝を曲げる必要があるし、心意が歩こうとしなければ歩くこともできないことは確かである。

ここでいう「しない」とは、「歩く」という目的を遂行するために「する」必要のないことを「しない」ということである。

以下に簡単な例を示す。

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どちらの絵図も手指を握るという目的を遂行している。がしかし、左の絵図はする必要のないことを「する」という無理な動作であり、右の絵図はする必要のないことを「しない」という合理的な動作である。

なぜなら、手指を握るならば手首が折れるのが、身体本来の自然な機能だからである。

手指を握っているにもかかわらず、左の絵図のように「手首を固定しようとしている」働きこそが身体の機能に反発する人為的自我の働き=無理であり、手指を握ると同時に、右の絵図のように「手首を固定しようとしない」働きこそが身体の機能に服従する無為無我の働き=合理である。

要するに、左の絵図は部分と部分が邪魔し合っており、右の絵図は部分と部分が協力し合っているのである。

合理的な姿勢や動作とは全体的であり、部分に全体が従い、全体に部分が従うのである。つまるところ「無理」とは部分と部分が邪魔し合うことであり、「合理」とは部分と部分が協力し合うことでもある。

無理 : 部分と部分が邪魔し合うこと。部分的。全体不一致。不調和
合理 : 部分と部分が協力し合うこと。全体的。全体一致。調和


同じように、片膝を曲げると同時に、骨盤が旋回し背骨は側屈や捻転を起こすのが自然である。片膝を曲げても、体幹(骨盤背骨)を固定しようとしている働きこそが身体の機能に反発している頑張りである。

合理的なウオーキング

体幹を固定しない歩き方

膝裏を引くことから足は前に運ばれ、骨盤は旋回し、背骨はシナル。(左膝が曲がり始めると骨盤は左旋回、背骨は左側屈、左捻転し始める。逆もまた然り)

身のまわりにいるネコやイヌ、アヒルやトカゲもまた同じように歩いている。あーそうだ。その昔、チェッカーズによる歌にあったではないか。

まさにこの曲にある「おしりふりふり」こそが自然な動きである。つまりはこのガチョウの子が可笑しいのではなく、周りの"棒動物"たちが可笑しいのである。

< 不快と快適の別 >
体幹を固めるような行為をするとミゾオチを中心に"頑張っている感"とでも呼べるような違和感が生じ、動作も呼吸もしにくくなる。頑張った姿勢では力の流れが滞ってしまうものだからである。

頑張っているときの感覚は、重く不快、推進力が弱く疲れやすいものであり、その逆に頑張っていないときの感覚は、軽く快適、推進力が強く疲れにくいものである。

無理 : 重い、不快、推進力が弱い、疲れやすい
合理 : 軽い、快適、推進力が強い、疲れにくい


ロボットのような棒歩きから、生きいきと躍動するお尻ふりふり歩きへと革命を起こし、軽く、快適、力強く、しなやかな人生を歩もうではないか。

無理な歩行と合理的歩行

正しい歩き方の詳細はこちら ↓



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