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ヨガの修習と離欲

本気でヨガを学ぼうと、その代表的な古典である『ヨガ・スートラ』を読み始めると、「修習と離欲」(「abhyasa /アビヤーサ」と「vairagya /ヴァイラーギャ」)という言葉を目にする。

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心の様々な作用を止滅するには、修習と離欲という2つの方法を必要とする。

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この2つの止滅法のうち、修習とは、心の作用の静止を目指す努力のことである。

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離欲とは、現に見、あるいは伝え聞いたすべての対象に対して無欲になった人のいだく、克服者としての自覚である。

出典:『解説ヨーガ・スートラ』|佐保田鶴治著|平河出版社

基本的に、ヨガとはこの2つの実践であり、この2つの本旨を理解したのなら、他に学ぶことは何もない(学ぶとすればこの2つを実践する動機付けとなる知識である)と言えるほど、重要概念である。

ところがどういうわけか、世間一般には一貫して的外れな解釈が思いのほか広がっているようである。それは概ね次のような解釈である。

<一般的見解>
● 修習 : 努力すること
● 離欲 : 結果に執着しないこと

これは例えば、オリンピックで金メダルを目標に努力するが、その結果には拘らないと言うことである…… が、まったくそうではない。

修習とは「心を静めるための努力」であり、外的対象に依存して快楽(幸福感、充実感、達成感など)を得るための努力ではない
離欲とは、外的対象に依存して快楽を得ることに関心のない心境であり、競技で金メダルを得ることにも、競技をすることにも、金メダリストに成ることにも関心のない心境である。

ということで今回は、ヨガの扉を開いた幸運な方にとって今後の進展、今後の人生を大いに左右するであろう「修習と離欲」のお話をすることにする。

ヨガの要点

まず始めに、ヨガの要点を押さえておこう。

ヨガとは、心を静めるための方法である

ヨガにおいては、心を静める努力は正しく、心を騒がす努力は誤りなのである。この基本的態度から目をそらしていては修習と離欲の本旨は理解できない。

修習と離欲

ここで、心を騒がす要因を知る必要がある。心を騒がす要因はあらゆる外的対象である。ゆえに、心を静める努力とは外的対象から注意をそらすことに他ならず、心を騒がす努力とは外的対象に注意を向けることに他ならない。

● 修習(しゅうじゅう)
見たい、聞きたい、香りたい、味わいたい、触りたい、考えたい、知りたい、持ちたい、為したい、成りたい……などと心を騒がす要因である外的対象から注意をそらし、内的主体に注意を留めておく努力であり、これがいわゆる瞑想である。

● 離欲(りよく)
見たい、聞きたい、香りたい、味わいたい、触りたい、考えたい、知りたい、持ちたい、為したい、成りたい……などと心を騒がす要因である外的対象への関心を失うことである。外的対象への関心を失うほど心は静まりやすく瞑想も進展する。

● 修習 : 内的主体に注意を留めておく努力
● 離欲 : 外的対象への関心を失うこと

単純にいって修習と離欲とは、心意の向きを外側から内側に方向転換することである。
そしてこのような修習と離欲を実践し、その目的を成就するには誤解を止めることが必要不可欠である。

苦しみに対する誤解

人は誰もみな「私が苦しんでいる原因」を誤解している。この誤解が苦しみの原因でもあり、この誤解を止めることが離欲修習の道、すなわちヨガである。

人は「私が苦しんでいる原因は、〇〇を持っていないからだ、〇〇を為していないからだ、〇〇に成っていないからだ」などと誤解し、「〇〇を持つことによって、〇〇を為すことによって、〇〇に成ることによって私の苦しみを取り除ける」と信じ込んでいるのである。

そしてその結果、見たい、聞きたい、香りたい、味わいたい、触りたい、考えたい、知りたい、持ちたい、為したい、成りたい……などの様々な欲望/〇〇したくないなどの様々な恐怖が起こり、様々な外的対象に注意関心が向くのである。

要するに、「私が苦しんでいる原因」を誤解し、外的対象に救いを求めている限り外的対象へと関心は向くし、内的主体に関心が向くことはないのである。

このため、修習と離欲を推し進めその目的を成就するために、根本的には「私が苦しんでいる根本的原因」に対する誤解を止めることが必要であり、副次的には「私が苦しんでいる副次的原因」に対する誤解を止めることが必要である。

根本的原因の除去 : 修習

私が苦しんでいる根本的原因とは「私」を誤解していることである。この誤解を止めることが離欲修習の道、すなわちヨガである。

人は「私」を見誤っており、つまりは「私」を知らないのである。この「私」に対する無知・誤解が「私が苦しんでいる根本原因」であり、これがいわゆる無明である。

あらゆる欲望/恐怖、苦しみはこの無明から起こる。

私は誰か? 私とは何なのか?

私とは『身体』なのか? 『腕』が私なのか? 『頭』が私なのか?
私とは『心』なのか? 『思考』が私なのか? 『感情』が私なのか?

人は誰もみな「私は〇〇である」と断言することはできない。それにもかかわらず、人は無意識的習慣により「私は身体である」「私は心である」などと「私は何かしらの対象である」と信じ込んでいるのである。

あらゆる欲望/恐怖、苦しみはこの信念から起こる。

ここで、この信念を見破り、信念を止滅するそのために、外的対象への注意を引っ込め、内的主体に注意を留めるのである。

これが修習である。

副次的原因の除去 : 離欲

私が苦しんでいる副次的原因は「私が苦しんでいる原因は外的対象の欠如であり、外的対象を獲得することによって私の苦しみは取り除かれる」などという誤解である。

しかし事実はといえば……

私が「〇〇を持っていないことは不幸である」と決定したからこそ、私は〇〇を持ったことに幸福を感じるのである。
私が「〇〇を為していないことは不幸である」と決定したからこそ、私は〇〇を為したことに幸福を感じるのである。
私が「〇〇に成っていないことは不幸である」と決定したからこそ、私は〇〇に成ったことに幸福を感じるのである。

不幸と幸福は表裏一体であり、不幸を感じることによって人は幸福を感じることができるのである。そのため人は無意識的に、不幸を作り出しておいてから幸福を感じるための努力をするのである。

信じがたい滑稽さではあるが、これが事実である。

また、この"変化の世界"においては、何を持とうとも、何を為そうとも、何に成ろうとも一瞬たりと持続することはないのである。ゆえに必然的に、幸福は"私が作り出した不幸"に戻るのである。

何かしらの外的対象を手にいれ喜びにひたり、苦しみを取り除いたと感じたその瞬間から、すでに苦しみへのカウントダウンは始まっているのであり、まさに幸福とは泡のように儚いものである。

これらは一例であるが、このように欲望を追求すること/恐怖を忌避することの無意味さを理解することや、道理に精通した賢者の教えを信じることにより、私は、〇〇を得ることに関心がなくなり、〇〇を為すことに関心がなくなり、〇〇に成ることに関心がなくなるのである。つまりは、外的対象への興味関心を失うのである。

これが離欲である。

賢者の教え

外的対象による幸福は不幸の片割れに過ぎず、相対的で一過性のものであり求める価値のないものである。しかし、外的対象も内的主体も超えた純粋な意識としての【私(真我)】に備わっている幸福は不幸の片割れではなく、絶対的で永遠のものであり唯一求める価値のあるものである。

あなたは身体でも心でもなく、意識内に現れては消えるあらゆる対象を照らし、あらゆる対象を超えて在る純粋な意識である。

信じるものは救われる。


参考図書:

参考ウェブ:


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