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世界救済論

私は、外に見える"世界"の改善に忙しい。
私は、外に見える"世界"の救済に忙しい。

私は、外に見える"私"の改善に忙しい。
私は、外に見える"私"の救済に忙しい。

私は、内に見える"世界"の改善に関心を向けない。
私は、内に見える"私"の救済に関心を向けない。


世界とは、心の働きを通して形成された自然性の現れである。
世界とは、観念を通して形成された心の形体である。
世界とは、記憶を通して形成された個人的な想念である。

世界とは観念的であり、実体的ではない。
世界とは主観的であり、客観的ではない。
世界とは個人的であり、全体的ではない。

客観的な世界は存在していない。

世界とは心の働きの産物であり、個人的な"夢"である。

ウサギとカメは、同じ世界を生きていない。
サルとヒトは、同じ世界を生きていない。
彼と彼女と私は、同じ世界を生きていない。

彼は、"彼の世界"に起こる恐怖を逃れたとき、一時的に救われるだろう。
彼女は、"彼女の世界"に起こる欲望を掴んだとき、一時的に救われるだろう。
私は、"私の世界"に起こる恐怖を逃れ、欲望を掴んだとき、一時的に救われるだろう。

私は、彼が彼の恐怖を逃れる手助けをすることによって、"私の世界に住む彼"を一時的に救うことはできる。
私は、彼女が彼女の欲望を掴む手助けをすることによって、"私の世界に住む彼女"を一時的に救うことはできる。
私は、私の恐怖を逃れ、私の欲望を掴むことによって、"私の世界に住む私"を一時的に救うことはできる。

子供にお菓子を与えるように、

私は一時的に"世界"を救うことができる。


自然性とは変化である。

苦しみは必然として喜びをもたらし、喜びは必然として苦しみをもたらす。
貧しさは必然として豊かさをもたらし、豊かさは必然として貧しさをもたらす。
争いは必然として平和をもたらし、平和は必然として争いをもたらす。

一時的に救うことは表面的な解決である。
一時的に救うことは根本的な解決ではない。
一時的に救うことには果てがない。

一時的な救いとは、自然性の果てしない繰り返しを手助けするかのようである。

私には、自然性の果てしない繰り返しを止めることはできない。

子供にお菓子を与えるようなことをしても、

私は恒久的に"世界"を救うことはできない。


私の見方が世界である。
私の観点が世界である。
私の観念が世界である。

善悪、正誤、優劣、美醜、価値無価値、快苦、貧富、和戦、生死、損得、勝敗、因果、有無、自他……

分割し、判断する主観が世界である。

相対的観念による「心の愛憎反応」が、私と世界と苦しみのマトリックスである。

あるがままの変化に抵抗することが、マトリックスの生起である。
あるがままをあるがままに見ることが、マトリックスの終焉である。
あるがままをあるがままに見ることが、私と世界の救済である。

世界を改善する唯一の方法は、見方を変えることである。
世界を救済する唯一の方法は、差別偏見をなくすことである。

自然はひとつである。
自然はあるがままである。

すべてを平等に見ることである。
すべてを同一と見ることである。
すべてを一つと見ることである。

差のないものに差を見ることが、マトリックスの生起である。
分かれていないものを分けて見ないことが、マトリックスの終焉である。
あるがままをあるがままに見ることが、私と世界の救済である。

恒久的な救いとは、あるがままを覆い歪めている個人的な"夢"を終わらせることである。

私には、自然性の果てしない繰り返しへの「心の愛憎反応」を止めることができる。

"世界"の見方を変えることによって、

私は"世界"を救うことができる。


世界という"夢"から目覚め「私」と「世界」がともに消えさるとき、そのときのみ世界はあるがままであるという真実を悟り、"あるがまま"は認識される。

その認識こそ、世界の救済そのものなのだ。

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