15. 角川文庫解説目録 1975, 4〈新訂版〉
坪内祐三さんが今年の初めに亡くなって、本の雑誌社から「本の雑誌の坪内祐三」が出たので、熱心に読んでいる。坪内さんの死は本当に急逝という印象で、それから起きたコロナ騒ぎや、オリンピックの延期や、自粛やその解除や、都知事選など、狂騒曲と呼ぶに相応しい馬鹿げた一連について、坪内さんの言葉が聞ければなと思う瞬間が多くあった。坪内さんといった良心を失って、東京という街はタガが外れてしまったのかも知れない。古いものが軽視されて取り壊され、新しくつくられたものだけに取り囲まれる東京で、果たして人は満たされるのだろうか。坪内さんだけではなく、常盤新平、大瀧詠一、安西水丸、原田治、和田誠、皆いなくなってじわじわと足元の岩が削られているような気分がしている。これからどこにどうやって立てばいいというのだろう。そういう意味では、坪内さんを含む人々は、東京という街のキャッチャーだったように思える。
そういうなかで「本の雑誌の坪内祐三」を読むとホッとすることが多く、危うい足元を確認することができる。例えば、角川文庫のアメリカ文学が僕の大学だった、という文章を読んで、彷書月刊の坪内祐三のアメリカ文学玉手箱の号に手を伸ばした。すると、自分は何が好きなのか、何に心を動かされるのかを見つめ直すことができる気がして、これでいいんだという自分の声が聞こえた。坪内さんの著作は大方を手に入れて読み通しているけれど、手元に残る本は新潮新書の「新書百冊」くらいで、後は手放してしまっている。それでもこの彷書月刊と、en-taxiの常盤新平さんの追悼号があることで、坪内さんという人を全面的に支持したいように思える。角川文庫のアメリカ文学にも、常盤新平さんにも、初期の村上春樹にも、ハッピーエンド通信にも、坪内さんを経由せずに行き着き、そこで坪内さんを再発見するという体験をしたことは自分にとってはほとんど唯一のことだった。他には小村雪岱や北園克衛に多方面から合流するのを認識する程度で、ここまで行く先々に同じ人がいることはなかった。それで懐かしく角川文庫のことを考えていた。
この一九七五年の解説目録は、八王子古本まつりで手に入れ、その日ははるばる八王子まで行ったにも関わらず、この本しか買っていない。それでも今あらためて見ると、それだけの価値があったと思える。この目録を眺めていると、まだまだ掴みきれない角川文庫の翻訳物の奥深さがある。例えば、坪内さんが度々讃える「愛の化石」はこの目録にも載っているが現物を見たことがなく、同じく掲載のある青木日出夫編の「ニューヨーカー短編集」も、高見浩訳のジム・トンプソン「ゲッタウェイ」も一度も見かけたことがない。ちなみに高見浩さんのデビューは高杉麟という名前で訳した「キャンディ」で、角川春樹との関係が今でも続いているのがすごい。また逆に、坪内さんが早稲田大学在学中にマイルストーンに書いたダン・ウエイクフィールドの「夏の夜明けを抱け」はこの目録には載ってなく、持っている常盤新平編の「マドモアゼル短編集」や、植草甚一も触れたトマス・ロジャーズ「幸せをもとめて」など多くの作品が同じく載っていない。また、感動的なのが片岡義男を引くと、随筆・評論のページに「ぼくはプレスリーが大好き」しか載っていないことで、これには心温まる思いがする。
「本の雑誌の坪内祐三」とほぼ同時期に出た、夏葉社のレーベルである岬書店の「ブックオフ大学ぶらぶら学部」を楽しく読んだけれど、角川文庫を多く拾ったのはもちろんブックオフでだった。100円の棚に齧り付いて翻訳物や片岡さんをはじめとした角川文庫を必死に探したけれど、今ではほとんど行くことがない。それはバーコードのない本がめったに置かれなくなったからで、そこにも東京の街の嫌な変化を感じる。もう五十年近くも前の本をコツコツと集めて、その頃の目録を見つけてその内容に感動を覚え、そこからまた興味が広がっていくという、その行為より豊かなことはあるのだろうか。それに勝るものは、僕にはまだ見つかっていない。
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