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47. 深瀬基寛 エリオット 鑑賞世界名詩選 筑摩書房

ふと買い逃した本のことを思い出すときがある。つい先日も、吉田健一を読み返していると、数年前に東急東横店に代わり東急たまプラーザ店で開催された古本市で見かけた雄鶏社版の「英国の文学」を買わなかったことを思い出し、胸が痛んだ。
また覚えているのは、池袋西武の古本まつりで売られていた小村雪岱の「お伝地獄」の挿絵の版画で、これも思い出すたびに、買って部屋に飾ってあったらどんなにいいだろうと悔やんでいる。
他にも数冊あるような気がするが、そうやって買い逃したことで印象に強く残っているだけで、本棚には逃さずに手に入れた本が多く並んでいることを、むしろ喜んだほうがいいのだろう。
この深瀬基寛の「エリオット」もまさしくそのように出会い、こんな本がこんなところにこんなタイミングであるなんてという一期一会を果たしたのだった。

以前は三省堂の隣のビルの何階だかに入っていて、その後しばらく無店舗で営業していた古書かんたんむが、湯島ハイタウンで店舗営業を始めたことを知り、早速訪れた。
並んでいる本の絶妙な古さと雑多な具合に、神保町時代の懐かしい空気を思い出しつつ、一巡目では手ごろな集英社版の吉田健一著作集の一冊を買おうとしていたところ、二巡目でこの本を目にして、その衝撃に思わず声が出た。
それというのは、この本は大江健三郎が著作のなかで何度も触れている、東京大学駒場キャンパスの生協の本屋で出会い、「さようなら、私の本よ!」では、

エリオットの詩集として生まれて初めて買った、原詩に翻訳と解説を合わせた深瀬基寛の本。
本にはダストカヴァーも掛かっていたが、古義人はそれを外して、当時めずらしかった布の表紙をしげしげと見た。淡い緑色だったものが色褪せて、上のへりから茶色のしみが降りて来ている…… この本を古義人は大学生協の書店で十九歳の冬に買った。

とある、作家人生の以前から晩年まで関わり続けた本そのものだったからだった。

よくこの日に来て、店内を二巡して、そして見逃さなかったと思うなかで、あらためてそういったことと関係づけて思い出されるのが、エッセイとしては二冊目に読んだ「新年の挨拶」にあった文章だった。

経験をめぐって、いつかふたつの感じ方を持つようになっている。/まったく新しいことがらを、自分はもう二度とこうしたことを繰りかえしなしえぬだろう、死の時のいたるまで、と確信してシンとした寂寥感におそわれるかたち。そこで当の経験がなおさらしみじみとしたものになる。それもやはり過去の経験からの知恵として出てくるものだ。

つまり、出会った本を一期一会のものとして捉えることができるのは、それまでの様々な経験がもたらすものであって、買い逃すということは、二度とないかも知れないと想像することができない経験の無さから来るものだろうと思う。

そういった経験をめぐる感慨として、大江作品をひとつずつ読んでいる今、まさにそのような時のなかにいると感じる。
読書の初期の記憶としてあるのは、ハリーポッターの原作を三巻まで映画が存在しないままに読んだことで、後々思い返すとそれは幸福な体験だったのだと知ったことがある。
それと同じ意味で、真っさらな状態で「燃えあがる緑の木」まで読み、この後には「宙返り」から長江古義人の作品群を読むことができるという経験は、自分の人生でもう二度とはないことなのだと実感している。

「燃えあがる緑の木」では、一瞬よりはいくらか長く続く間、という言葉が繰り返し出てくる。それは作品のなかにあるように、ある一瞬、永遠をとらえたという確信のことを指していて、それをじっくりとあじわうことが喜びなのだということに、深い共感を覚える。
本を読むことや、一冊の本を買うこと、また普段の生活での様々な場面で、そういった瞬間を感じ取り、この瞬間はもう訪れないだろうという認識とともに、シンとした寂寥を感じる。
それでもそのとき、確実にその一瞬にいることを、今まで生きてきた経験によって感じ取れているということが、喜びなのだろう。

#本 #古本 #深瀬基寛 #TSエリオット #吉田健一 #大江健三郎

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