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33. THE NEW YORKER FEB. 8. 2010

冬になると気分はクリスマスシーズンで、その度にクリスマスの物語である「ライ麦畑でつかまえて」を読みたくなる。正確には村上春樹訳で読むので「キャッチャー・イン・ザ・ライ」なのだが、心の中ではライ麦畑という名前で出てくる。
前に、息子から一番好きな本は何かと聞かれて、すっと頭に浮かんできたのはこの本だった。一番好きな本はライ麦畑でつかまえてです、というのは何となく恥ずかしい気がするが、これほど何度も読み、深く考えた本は他には無い。
それは何故かというと、「ノルウェイの森」が初期村上春樹作品の総まとめであるということと同じで、ライ麦畑が初期サリンジャー作品の総まとめとなる作品だからだろう。ホールデンにまつわる短編三作品とグラッドウォラーの三編があるからこその広がりがあり、短編ごとの読みや考えが繋がっていくのがライ麦畑という作品になる。
それまで荒地出版社と角川文庫で読んでいたこれらの短編が、新潮社から「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる」としてまとめられ、その驚くべき出来事にだけ捉われていたが、竹内康浩「謎ときサリンジャー」「ライ麦畑のミステリー」を読んでから、田中啓史「ミステリアス・サリンジャー」も読むに至り、六つの短編は雑誌掲載された順番ではなく、書かれた順に並べられているということに気が付き、あらためて感心した。
「ミステリアス・サリンジャー」のなかでは、ライ麦畑の元となる二編は先に書かれていたものの戦争の影響で掲載されず、グラッドウォラーものを書くうちに、サリンジャーはホールデンと兄のヴィンセントを死なせてしまう。そこでは弟のアリーも、レッドとケネスと名前を変えて出てくるが、とにかくその三兄弟は皆死んでしまい、フィービーは幼い妹と二人きりになる。それでも戦後にホールデンの二編がようやく掲載されたことにより、サリンジャーはホールデンが生き返ったような気になり、二編を発展させたライ麦畑を書くに至ったといったことが書いてあった。
それにはなるほどと思う一方、サリンジャーはフィービーへの罪滅ぼしとしてライ麦畑を書いたような気もしてくる。六つのなかの最後の短編「他人行儀」において、戦地から帰ってきたベイブはまた会うことができた妹マティと、ヴィンセントの元婚約者に会いに行くが、本当に会いに行くべきだったのはフィービーではなかったのかと思う。それでも兄三人を失ったフィービーに、ベイブとマティの二人で会いに行くのは辛すぎる気もするけれど。
そう思うと、戦争の後でホールデンも兄DBも生きているライ麦畑という物語は、フィービーの目が覚めたら全て夢だったという話のようにも思えてくる。それは、あの時もし金色の輪を掴むことができていたら、というもしもの話のように。

雑誌ku:nelの読書特集号に、松浦弥太郎さんの本棚が載っていて興味深く眺めていたら、常盤新平さんの「私のニューヨーカーグラフィティ」が並んでいてとても感慨深かった。松浦さんが暮しの手帖の編集長になった際、沢木耕太郎の二十年続いた映画評の連載終了を決めた一方、常盤さんのニューヨーカーにまつわる連載はその後も長く続けられて、その連載を中心にまとめたのがこの本だ。忘れていたその本を図書館で借りて読んでいると、ニューヨーカーという雑誌に対する憧れがよみがえってきた。
きっかけはその連載を読んだからか思い出せないけれど、ある時期、常盤さんと同じようにニューヨーカーを毎週購読していた。常盤さんとは違いほとんど読めはしないのだが、何となく今現在のアメリカやニューヨークの感覚を感じ取ることができた。
そうやって購読していた間に出たものがこの2010年2月8日号のニューヨーカーで、サリンジャーが死去したことを伝える号になっている。街の話題でリリアン・ロスなどが記事を書き、家族に囲まれて幸せそうな写真も掲載されていて、サリンジャーの人生を想ったことを覚えている。
そういえば、サリンジャーが亡くなった後、未発表の作品が出版される噂が、作品のタイトルやテキストと共に流れたが、その後一体どうなったのだろう。これからの人生の楽しみの一つに取っておこうと思う。

#本  #古本 #サリンジャー #村上春樹 #松浦弥太郎 #常盤新平

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